2010年08月20日

帆布カバン 喜一澤

帆布カバン 喜一澤

旅行の最後の日に京都の「帆布カバン 喜一澤」に行った
また長崎の旅行の記事の順番に割り込む事になるが
このときの印象、感想も早いうちに書き留めておきたかったので、先に書くことにする
(正式名称は「帆布カバン 㐂一澤」で「喜」の漢字が崩した形になっています)


奈良から京都に入り、荷物を預けた後
京都市バス「206」系統に乗る
「知恩院前」バス停で降りると、その近くに「帆布カバン 喜一澤」はある

此処に来た理由は、長年使っていた「一澤帆布」カバンの修理を依頼するため
このカバンは今回の旅行中も酷使していたが、大きな裂け目とショルダーベルトの痛み
そして革のパーツの極度の傷みが目立っていた

(「一澤帆布」カバンの修理を なぜ「信三郎帆布」に出さないのか、という点については後述する)

「帆布カバン 喜一澤」は、7月7日にオープンしたばかり
代表者である一澤喜久夫氏は、かつて「一澤帆布」で作られたカバン・帆布製品の多くをデザインした人だという
私が修理を依頼したカバンも、喜久夫氏によって原型のカバンから改良されたものだそうだ
私が「帆布カバン 喜一澤」に修理を依頼した理由の一つに
このカバンを造り上げた人の店に修理してほしかったという点がある

「帆布カバン 喜一澤」の店舗は狭い、元の「一澤帆布」の三分の一位ではないだろうか
並べてある商品の種類もまだ少ない
「型紙の無い」状態からの再出発だから、これから徐々に種類を増やしていくという

とりあえず店舗の中を一周する
商品の縫製の具合、生地の品質等を、自分の目で確認する
まったく問題は無い、少なくとも私の目には問題は感じられなかった
ミシン目は揃っているし、生地はしっかりとしている

商品の出来から見る限り
少なくとも、修理に出した際の技量についてはまったく問題は無いように思える

店員さんにカバンの修理を依頼する
最初の店員さんの答は「修理は信三郎帆布に出してほしい」との事だった
理由は「現在一澤帆布の商標権は信三郎帆布に有るため」ということだ
このことはある程度予想できていた
そこで、信三郎帆布に修理を依頼するつもりはまったく無い旨を伝えたうえで再度修理を依頼する
店員さんは電話で代表の喜久夫氏に連絡を取り
喜久夫氏が現物を見た上で修理の可否を判断するという

10分ほど待っただろうか、喜久夫氏が来られる
簡単に挨拶をして、バックを手渡し修理部分の希望を伝える
バックを手にした喜久夫氏は
「この部分は一度ほどいて、布を裏から当てた上で縫い直します」
「この部分は布を当てるだけにしたほうがいい」などというふうに
修理の方針をその場で的確に判断していく
私のカバンの「使用した痕跡」を残しながら補修をする事になる
そこには職人としての確かな目があるように思えた

その場で修理代金の設定までしてバックを預ける事にする
修理期間は一ヶ月程度ということだったが
秋にこの方面へ出かける予定があるため、その時に受け取ることになった

その後、喜久夫氏と少し長めの雑談となる(ほとんどは聞き役だったが)
その話の中には、当然ながらここ数年続いている問題の事が多く含まれている

おそらくは口下手な方なのだろう
しかし、その訥々とした語りと、決して目をそらさずに話し続けるさま
そしてまったくの初対面である私に対しても衒いの無い語り口と
まったくの初対面である私を疑うこともなく、上記のような物腰で語り続ける事に
私は喜久夫氏の人柄としての誠実さを感じた

たしかに、話の中に信三郎氏への批判もあるし
数年来の問題に対しての説明は「一方の当事者の主張」とみなされるかもしれない
しかし、この背景には信三郎氏側の主張が一方的に世間に流れているという不満を強く持っているという点と
喜久夫氏が「一澤帆布」在籍中に行った多くのデザイナーとしての実績がまったく伏せられたうえに
喜久夫氏の旧一澤帆布時代の事が誤解された形で世間に喧伝されている事に対しての憤りがあることを理解したい

この会話の中の事をどの程度書いてよいのかは分からないし
会話の内容自体正確に記録したわけでもなく、既にうろ覚えの部分も多い
しかし、ある程度客観的な裏づけのある以下のことについては書いても良いと思う
それは「一澤帆布相続問題」についての、まったく別の視点を示すことになる

「二通の遺言状」を発端とした相続問題の最中に一澤信三郎氏から出されたメッセージ
http://www.ichizawashinzaburohanpu.co.jp/kakousho/message/060125.html
には、喜久夫氏について次のように書かれている 
(注 リンク先の記事は、一時直接「信三郎帆布」HPにアクセスするように書き換えられており
   当該のメッセージは削除されていました
   しかしこのことを指摘した文章を書き込んだところ、そのリンクも削除されております
   このことは先方がこの記事の指摘を認識しているということになりますが
   それにもかかわらずこの問題に回答する意思のないことを現しています  
   問題点に対して説明することなく削除されたことに、深い失望を感じています
   なお、削除された記事は、下記のアドレスで見ることができます
   http://web.archive.org/web/20060627123647/http://www.ichizawashinzaburohanpu.co.jp/kakousho/message/060125.html )
 私は1971年に同志社大学を卒業後、約9年間会社員としての人生を歩んでいました。ところが会社を手伝っていた弟・喜久夫は体調不良で会社に週に2日ほど、それも昼からしか出勤してこないような状態になり、父・信夫も65歳を過ぎ、十数人の社員も高齢化して、このままでは廃業することになってしまう、と一澤帆布工業(株)に戻ることを決心しました。
 (中略)
1996年12月 弟・喜久夫退社
弟・喜久夫は「もう仕事はしたくない、好きなことをして暮らしたい。」とみんなの前で宣言し、退社しました。
 (後略)

この文章を読んで、大概の人が感じ取る事は
「喜久夫氏はほとんど仕事をしなかった挙句、最後は自分勝手に会社を辞めていった」
ということだと思う

実際、一澤帆布の相続問題を扱ったブログ記事(一般の方による記事)を読むと
ほぼ例外なくそのような受け取り方をしているし
「もう仕事はしたくない、好きなことをして暮らしたい。」という言葉を不用意に引用している事も多い

私も最初に一読した時にはそう思ったが
よくよく読み返してみると、この部分の記述は著しく不自然なように思えた
まず、この文章で最初に「弟・喜久夫は体調不良で」と書いたくだりから
その後の「 弟・喜久夫は ~ みんなの前で宣言し、退社しました。」との記述の間に
喜久夫氏について何もかかれていない
つまり、これをもって信三郎氏の1980年の入社から喜久夫氏が退社する1996年までの16年間
喜久夫氏は何もしなかったということになるのだが
常識的に考えて、いくら家業でも16年間何もせずに在籍する事は出来ないと思う
また、もし「もう仕事はしたくない、好きなことをして暮らしたい。」という言葉を喜久夫氏が言ったのなら
それは「身勝手」と判断するよりも「石もて追われた者の叫び声」のように、私には聞こえる
(この件について、喜久夫氏は「まったくの嘘だ」と明言している
 また、信三郎氏はその入社以前に一澤帆布が廃業の危機にあったような事を言っているが
 そのようなことは無かったと喜久夫氏は証言している
 実際に、信三郎氏が入社する以前に、一澤帆布は雑誌に取り上げられるようになり
 既に有名な存在になっていたという事実を重視するべきだろう)

私はこの様に感じたが、この時点では客観的な証拠が無いから、あくまでも「私の心証」でしかない
しかし、色々なインターネットのサイトを検索しているうちに
「京都デザイン優品」http://www.kyoto-design.net/kyo-brand/というホームページに行き着いた
このサイトでは1989年以降の入賞作品を見ることが出来るが
喜久夫氏は退社する1996年までの間に四回(1989年・91年・93年・94年)入賞作を送り出している事が分かった
つまり、喜久夫氏は少なくとも商品デザインの分野で旧一澤帆布に大きな貢献をしていた事が
客観的な形で証明されたと考えてよい
そしてこのことは
あたかも「喜久夫氏はほとんど仕事をしなかった挙句、最後は自分勝手に会社を辞めていった」という
印象を与える信三郎氏の文章には嘘があったといわざるを得ない事を示している
なぜこの様な記述を信三郎氏はしたのか、私は信三郎氏の言動には疑問を感じざるを得ない


5月1日追記

 ここで新たに確認する事のできた事実を書き加えたい
 その前に一つ確認しておきたい事がある
 信三郎氏は先に引用した「メッセージ」の中で
“ 1996年12月 弟・喜久夫退社
弟・喜久夫は「もう仕事はしたくない、好きなことをして暮らしたい。」とみんなの前で宣言し、退社しました。”
と書いている。
 また、メッセージ前文を読めば、その後にも
“ 9年前に「仕事はしたくない」と言って辞めた弟・喜久夫”
と書いている。
 この事は、喜久夫氏は1996年12月に「一澤帆布」を退社し、その後は2005年の復帰まで一澤帆布に一切関わりなかったことを主張しているように読める。

 しかし、登記簿関係の書類をみると、喜久夫氏は確認出来る範囲では少なくとも平成11年(1999年)11月から平成13年(2001年)11月までの間、一澤帆布の取締役であった事が記録されている。更に平成11年の記載は「重任」となっているため、役職はそれ以前から続いている事になる。(登記簿関係の書類が電子化されてから後の記録の為、平成11年以前の役職については分からない。株式会社の役員は任期制で、通常は二年任期となっている。「重任」とは、役員任期の更新が、日時を置かずに行われた事を示している。)
 信夫氏(先代で信三郎氏及び喜久夫氏の父)は平成13年(2001年)3月に亡くなられている。

 なお、信三郎氏の主張する「1996年12月 弟・喜久夫退社」以降に喜久夫氏が改めて役員に選任される事は考えづらいので、おそらく喜久夫氏の役職は1996年12月より以前から続いていると考えられるが、今のところこの点は推測の域を出ないので、ここでは考えない。

 喜久夫氏が平成13年11月まで役職にとどまっていた事実が何を意味するのか、を考えてみた。
少なくとも次のことが言えるように思う。
 ・喜久夫氏が役職にとどまっていたのは、一澤帆布の最大株主から支持があった
  (最大株主はいうまでもなく父親の信夫氏である)
 ・平成13年(2001年)11月に、任期満了による「退任」となっているが、喜久夫氏が自主的に退任する理由は
  なかったため、この退任は信三郎氏による喜久夫氏取締役の「重任(再任)」拒否、事実上の解任であった
  と考えられる。
  父親の信夫氏はこの年の3月に死去しており、この時点では「第一の遺言書」が有効の為、このときの
  最大株主は信三郎氏である。
  なお、私が「喜久夫氏が自主的に退任する理由はなかった」としたわけは、私と喜久夫氏との会話の中で
  喜久夫氏自身が「会社から追い出された」と語った事を聞いているからである。

 喜久夫氏が平成13年11月まで取締役であったにもかかわらず、「1996年12月 弟・喜久夫退社」と書いた信三郎氏の主張は、(取締役である以上「退社」している訳が無い、という点でも)おかしいことになる。
 しかしながら、なぜ信三郎氏がこの様な書き方をしたかを考えると、私は次のように考えざるを得ない。

 信三郎氏は、自身で喜久夫氏を「重任拒否(事実上の解任)」した事実を隠したかったのではないか?
 (これは、信三郎氏が最初の「遺言書」裁判の確定で社長を解任される前の話だ。その前に自分自身が喜久夫氏を
  解任したという事実があることは、「不都合な事実」以外の何物でもないのだろう。)

 少なくとも信三郎氏は、喜久夫氏が平成13年11月まで一澤帆布の取締役であった事を隠していた。
 この事は歴然とした事実だ。

 ではなぜ「重任拒否」をしたか、については、客観的に語る資料は無いから、ここでは問わない。
 もちろん、このことについて話を聞いたことはあるが、一方の当事者の主張の範囲である以上、
 ここでは取り扱わない。

 少なくとも私は、ここで登記簿関係の書類という客観的な資料を元に語りえることのみを書いた。
 信三郎氏が「全ての真実を語っているわけではない」ということは、このことからも確認できると思う。
 そして、信三郎氏の「メッセージ」の内、少なくとも喜久夫氏についての記述は、かなり意図的であったと
 考えさせられるように思う。

2012年5月18日追記
 先の追記の中で未確認だった「1996年12月 弟・喜久夫退社」という信三郎氏の主張について登記簿を更に遡って確認したところ、遡ることのできた1993年以降 喜久夫氏は2001年11月まで途切れる事無く取締役の地位を保っていたことが確認できた、つまり喜久雄氏は1996年12月に退社していなかったということになる。(1993年以前は未確認だが、調べる必要は無いだろう。)
このことはすでに「追記」の中で予測していたのだが、改めて登記簿という「公文書」によって確認できたことにより、喜久夫氏に対する信三郎氏の発言はきわめて信憑性を欠くと、私は判断する。

確かに、「1996年12月」に喜久夫氏が何らかの理由で会社の第一線から離れたことはあると思われる。しかし、もし第一線から去ったとしても、その原因が「喜久夫氏の身勝手」などではなく、信三郎氏にも何かしらの原因があったのでは無いか、とう可能性を考える余地がでてくる。更に、信三郎氏は明らかに「退社」と明言している。そして、喜久夫氏が(仮にそうだったとして)第一線から去った理由をまったく述べていない。(述べていないと言うことは、信三郎氏にとって不利な理由があるからかも知れないと考える余地が出てくる) 
そして、ほかならぬ「信三郎氏が保持していた遺言書」には喜久夫氏に対して約3割の株式譲渡が指定されていることにも注目すべきだろう。
もし喜久夫氏に何らかの非があったとしたら、この株式譲渡が行われていることは著しく不自然なように思う。
つまり、「約3割の株式譲渡」が記載されていたということは3人の相続者が「対等」に扱われているということであり、また「1996年にあったと思われる事件」が喜久夫氏の一方的な非によって起こったことではない(この「事件」によって父信夫氏の喜久夫氏に対する心証は害されていないということが実証できる)ことが十分に推察できる。
したがって、この問題の経緯について、喜久夫氏に対する信三郎氏の発言は不正確かつ意図的だったと思われる余地が生じた。
信三郎氏はなぜこのような発言および事実を語らなかったこと(1996年と2001年の二つの喜久夫氏に対する処遇)をしたかについての弁明と、本当の事情を話すべきだと思う。
もし信三郎氏が正当なのであれば、此処で間違いを正し、正しい事情を説明するのは 、信三郎氏にとってむしろ利になるはずである。
登記簿という公文書によって信三郎氏の発言と矛盾が生じている以上、この点について説明を求めることは、信三郎氏が公にした「メッセージ」を読み、それを信用した者すべてが持つ権利であると思う。 
そして、一般に公にされた文章に対する疑問の提示は「公益」に当たると考える




(2010年の年末になって、信三郎氏は経営権を回復した「一澤帆布」の従業員に対して不当な解雇を強行した
 一ヶ月ほど前に裁判で「和解」となったようだが、信三郎氏はこの様な一面も見せている
 「一澤帆布不当解雇事件 ~兄弟紛争に巻き込まれた労働者たち~
 http://www.daiichi.gr.jp/publication/makieya/2010s/06.htmlを参照してください)

(追記 「一澤帆布不当解雇事件 ~兄弟紛争に巻き込まれた労働者たち~ はリンク切れとなっておりました
 代りに下記の裁判傍聴記をご参考ください
  http://blogs.yahoo.co.jp/union_minaminokaze/43277807.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/union_minaminokaze/43006027.html

 また、裁判終了によって更新は止まっておりますが、一澤帆布労働組合のブログをまだ読むことができます
 http://ichizawarouso.blogspot.com/2009/11/blog-post.html

(現在このブログは閉鎖されています。したがって、以下のこのブログコメントを基にした部分の確認は現在できません。
 ただし、アーカイブとして次のページを見ることができるようです
   http://archive.is/0THF 
   http://archive.is/Wmlw   )
 このブログは記事そのものよりもコメントを丹念に読んでいくと、一般には語られていない事が多く書かれています
 例えば2010年1月12日記事のコメントで、6番目のコメントには次のようなことが書いてあります
 
「新一澤はどこの生地、テープ、金具、ファスナーを使っていたのか知って書いているのですか。旧一澤とどこがちがうか見分けがつきますか?生地の大部分、テープの何割か、金具のほとんど、ファスナーの全部は旧一澤と同じ業者の物を使っていました。
騒動の時、雑誌やテレビで新一澤とは取引をしないと言っていた帆布加工屋は今では社長がかわり社内では前社長があんな事を言わなきゃ両方に売れて良かったのにと言っていた事を知っていますか?」

 一方の当事者の主張ではありますが、これが事実だとしたら「信三郎神話」の一つが崩れている事にもなります
 なお、このブログに対するコメントの、特に後半になると荒らしによるコメントが多くなります
 「荒らし」行為の執拗さ、卑劣さを見せ付けられるようです

 なお、「信三郎神話」の一つに、職人は一人も欠けることなく「信三郎帆布」に移った、という「美談」がありますが
 実際には新会社に移る際に少数ですが数人の職人が退職し
 その中には新「一澤帆布」に移った職人もいたといいます
 この事は、そうした職人さんの一人が裁判に加わっていた為に分かった事です)


喜久夫氏の旧一澤帆布での仕事については
再開された当初の「一澤帆布ホームページ」で「多くの新作カバンのデザインと旧製品の改良を手がけた」事と
有名な一澤帆布の「ネームタグ」が喜久夫氏の発案・デザインであった事が記述されていた
このことは事実として認めて良いとおもう

「帆布カバン 喜一澤」は立ちあがった
それが可能だったのは喜久夫氏のカバンに対して情熱があり
また制作・デザインに対しての実力があったからだ
また、京都の中で店を立ち上げる事のできたのは
京都の人間関係の中で一定の支持が有ったからだと推定できる

「職人は全て信三郎帆布に移ったから、ここには職人がいない」という意見もあるが
実際には「一澤帆布」が再開した時、旧一澤帆布の職人が加わっていたという
また、中には「信三郎帆布」から移ってきた職人も居たということだ
だから今回の「喜一澤」にも旧一澤帆布の職人だった人が参画していたとしても不思議ではない
何よりも、実際に見た商品の良さが「喜一澤」の職人の技量を示していると思う

今まで「一澤帆布」のカバンを幾つか使ってきた
まだ商品は少ないが、この小さな店のこれからの発展を出来るだけ見守りたい


この記事の後半部分は、書くべきか否か 大きなためらいが有った
しかし、長い間 疑問に思っていたことを「世論の大勢とは違うから」という理由で口を閉ざす事は
正しい事ではないと思い、書くことにした(表現はだいぶ抑えた)
少なくとも「一般に広く広まっている事」よりも「一般には語られていない事」のほうに
多くの真実がある可能性を考えざるを得ない


(追記)
 一澤喜久夫氏の人となりについて語られていると思う二つの記事をリンクします
 どちらの記事も一澤喜久夫氏をよく知る人が相続問題からは少し離れた所から書いていると思います
 
http://blog.chapterworld.com/shoelife/?m=20100714

http://www.yusoku.com/ichizawahanpu.html

(追記)
 失われたと思われていた「長男信太郎氏経営時」の一澤帆布HPのアーカイブが見つかりました。
 資料的価値は大きいと思いますので、下記にそのURLを掲載します
 http ://web.archive.org/web/20090227180332/http://www.ichizawa-hanpu.co.jp/top.html 

 この中で私にとって興味深いのは「こぼれ話」の中にある次の三つのページ
 
 「鞄デザインはこうして出来上がった」
http ://web.archive.org/web/20080927140506/http://www.ichizawa-hanpu.co.jp/hanashi/03/index.html
 
 「一澤帆布のネームタグ」
 http ://web.archive.org/web/20090413210002/http://www.ichizawa-hanpu.co.jp/hanashi/01/index.html

 「一澤帆布のカタログ」
 http ://web.archive.org/web/20090206093200/http://ichizawa-hanpu.co.jp/hanashi/02/index.html
(追記:大変残念な事ですが、上記のアーカイブは2014年12月に削除されたようです。
    Wikipedia「一澤帆布」の編集ノートの中でこのアーカイブのことが話題となっており 
    その関係から現在の「権利者」がアーカイブの削除を申請したらしいことが
    編集ノートの中でほのめかされているようです。
    このアーカイブについては当方で「画像」として保存しているため、
    現在進行中の信太郎氏と信三郎氏との間で争われている裁判が
    もし信太郎氏勝訴の結果で終わった場合にのみ、
    その画像を公開することを検討しております。
    たとえそのアーカイブが賛否のあるものだったとしても、
    資料の少ない喜久夫氏の一澤帆布内での活動の様子を伝えるものとして大切なものであり、
    また、当事者の内の一方の側のみの主張や資料が偏ること、
    当事者のうちの一方の主張のみが正しいという風潮が定着することを危惧しています。
    例えば「中立」の立場でこの問題を検討してみたいという人にとっては 
    その資料の信頼度は別としても、ある立場の者がどのような発言をしていたかについては
    強い関心を持つものと考えています。
    それらの意味でこの資料が失われることに強い懸念を持っております。
    結局、その資料が一方の当事者にとって「邪魔なもの」だったということなのかもしれません。 )

 「鞄デザインはこうして出来上がった」は一澤喜久夫氏の鞄造りの姿勢を現しているものとして興味深く
 「一澤帆布のネームタグ」「一澤帆布のカタログ」は一澤喜久雄氏の「旧一澤帆布」の中でどのような存在であったかを表している点で
 重要な話のように思えます

 「一澤帆布のネームタグ」については、少々煩雑になりますが全文をここに引用します
  (但し引用先掲載の画像は除きます)

 今では雑誌などの「京都特集」なるものは巷にあふれているが、1971年(昭和46 )に「平凡パンチ」という男性週刊誌が『君は京都へ行くべきだ』という題で特集したのが、京都特集の最初であった。
 そのなかの「京都のおもしろい店」に一澤帆布が取り上げられた。
 それ以来、京都特集なるものが徐々に増えてきて、一澤帆布も年々掲載される回数が増えてきた。

 そのころ一澤のカバン・袋物には中(内側)に『一澤帆布製』のハンコを押していた(写真1)。 登山用テント・リュック等は英語のネームタグをつけていた(写真2・3)。当時山岳関係者の間では「一澤のものを使っていると一流」といわれた時代であった。



 だんだん地方の人・観光客の来店が増えてきて、その中に製品が気に入って再来するお客から、使っているうちに一澤帆布製のハンコが消えてしまうのが惜しいという声が多くなった。
 それで一澤喜久夫が刺繍のネームをつけることを1974年(昭和49年)に思いついた。ハンコの黒枠は赤枠の刺繍にかえた。
 父、一澤信夫にネームを付けて見せると、信夫は「お前の作るものはいつもええもんを作るが、これだけはやめとき」と言ったが、喜久夫が「いや、つける」と強く言い張った。信夫は「ほな付けたんと、付けへんのと半分ずつにしい」といったので、製品の半分にネームタグを付けることになった。



 当時は列島改造の好景気の少しあとで、まだ中卒者などの若者が「金の卵」といわれた時代であった。一澤帆布は知名度もまだ一部に限られていた零細企業で、従業員は高齢者が多かった。従業員は皆ネームタグをみて「こんなけったいなもんつけて」「いやらしいもんはって」と非難ごうごうであった。その頃すでに英語は氾濫し英語で書いてあるものは格好良くデザイン・飾りにみえても、日本語で書いてあると野暮ったくて広告に見られる時代でもあった。
 しかし、店頭に出すと英語の氾濫の中、日本語ネームタグがかえって新鮮に見えたようで喜び褒める人が多く、ネームタグ付かばんから売れてゆき、ネームタグのないあとの半分はその後でしか売れなかった。付いてないものばかりになると、「ネーム(タグ)付はないのか」と言われることが多くなった。それで、あとから付けることはできないので、ショルダー・手提げなどのかばん類は小物を除いて全部にネームタグをつけることになった。
 とはいうものの、ネームタグを見て不思議そうに「これは何ですか」「名札ですか」「広告ですか」というお客もいて、中にはその場でとってくれという人もいた。
  喜久夫ももともと名前・ブランドではなく製品の良さで売っているとおもっていたし、ネームタグなどどうというほどのものとも思ってなくて、その場で気い良く糸を切ってはがしていた。

 最初はネームタグをとってくれというお客が一週間に一人いたのが二週間に一人、一ヶ月に一人と減っていき、そのうち明らかにネームタグが気に入らず、自分で取ったと思われるお客が 「ネーム(タグ)が取れたので付けてくれ」 と持ってくるようになった。
 はじめは気に入らず取ったものの、人から「ネームタグが付いているのが値打ち」といわれて付けに来たと思われた。

 最初はほとんどのカバンは遠慮からカバンの後(裏側)の見えないところに付けていたが、人から見えるところに付けてという要望が多くなり、マチ(側面)につけるか物によっては前(前面)に付けるようになった。
 それでも以前から英語ネームを背面(正面)に付けていたリュック類にはまだまだあつかましく思い、付ける勇気はなく、その後もしばらく英語のネームタグの時代が続いた。
 また日本語ネームタグの大きさも最初はの一種類であったので、小型ネームタグができるまで小物製品には英語の小のネームタグを付けていた。
 しかし1980年(昭和55年)頃には日本語ネームタグはより評判になり、ほとんどの製品に付けないとお客が承知しなくなって現在に至っている。

 一澤帆布のネームタグがかなり世間に知られるようになり、何々帆布と名乗るカバン店が増えてきて、そのほとんどがネームタグも日本語しかもワクで(やはり赤ワクが多い)かこっている。遠目には一澤の製品ではと思うものもあるが、致し方ないことである。

 このネームタグ誕生話は、今(2006年・平成18年)まで広く語られることなく古くからの従業員とごく一部の人しか知らなかった話である。



2011年3月28日追記
本日、この記事へのアクセスが急増した為、何が起きたかを調べてみたところ
信三郎氏が「一澤帆布」のブランドを復活させるとのアナウンスがあったことを知りました
喜久夫氏が考案した「一澤帆布」のタグを信三郎氏が「自分のもの」として使うわけです
しかし、私が記事の中で書いた疑問、問題点が納得の行く形で説明されていない以上
私は信三郎氏の店を支持することはできません
このことを改めてここに記します

2011年4月6日追記

「京都人の夫」と名乗る人から次のコメント投稿がありました
以下に私自身の注をつけながら掲載します。(赤字は私の注)

「今回の騒動は信太郎の金儲け話のせい」ということですね。
「だから喜久夫氏には罪はない」ということですね。
「喜久夫氏はそれに乗せられただけの気の毒な天才デザイナー」ということですね。
全て、了解しました。そしてそれに反論するつもりはありません。
(私はこのようなことを何処に書いたでしょうか? 私の記事の主眼は、「喜久夫氏の一澤帆布退社についての信三郎氏の説明が不自然である、信三郎氏はこの点について嘘をついているのではないか」ということです。この問題は遺言書の問題よりも時間的に以前の問題であり、またこの記事で信太郎氏のことに一言も触れていないのに、信太郎氏の話題から始めるあなたの議論の手法に、既にインチキがあります。インチキの議論をする人は、相手の主張の内容を無視して、強引に自分の議論に方向を持っていくという特徴があります。
上記の理由から、「京都人の夫」氏のコメントは、この時点で既に相手にする必要は無いのですが、「荒らし」論者の手法があまりにも顕著なので、「念のために」その後の文章も検証します。)


どうぞ頑張って、インターネットや、他の町で商売をして下さい。
(私がインターネット等でどのような商売をしているのですか?)

しかし、ここは京都です。残念でした。そのような言い訳は、一秒たりとも許して貰える土地柄ではありません。
(「そのような言い訳」とは、あなた自身が創作した文章のことです。あなたが書いた文章をあたかも私の意見の如く押し付けた上で攻撃するという点に、あなたのデタラメさがあります。
ところであなた自身は後の文脈で京都の人ではないといっていますが、どうして京都人を代表したような事を言うのですか? なお、生粋の京都の方からこの記事に賛同のコメントを頂いています。また、リンクしたブログ記事には、まさしく「京都に住んでいる人」の意見です。あなたにとっては不都合な事実ですが、喜久夫氏に好意を寄せている京都の方は確固としていらっしゃるという事です。)


職人(ごく一部の何人かが裏切ったとしても)、そして何よりも、素材の供給元、彼らが見捨てたということ。それが全てなのです。(世論が「信三郎氏有利」の状況の中で信三郎氏の元を離れるという行為自体並大抵の事ではないのです。信三郎氏側は、あくまでも「一人も欠けることなく」と、当初主張していました。それがいつの間にか「大多数の職人が」に変わってしまったようですが、このような部分に私は情報操作を感じます。なお、一澤帆布労組のブログ内のコメントに ― この部分は記事に引用しましたが ― 「信太郎氏の一澤帆布」に元の素材供給元から素材が提供されていたとの書き込みがあります。この部分を読まずにこのようなことを書くのは問題です。しっかりと記事を読みましょう。
このように批判する文章すらまともに読みこなしていないという事実、「それが全てなのです」。)


ましてや、最高裁で偽物認定の遺言状(「2つの判決」などときれい事を言わないで下さい。両方を照らし合わせれば、偽物であることはどんな法曹の方でも認めるでしょう)。
(法曹の方々で意見が割れたから二種類の判決が出たのです。第一の判決は「真贋」の判断で、偽物とは断定できないから「第二の遺言状は真正」という判断、第二の判決は「有効・無効」の判断で、書式(印鑑の問題)に問題があるから「第二の遺言状は無効」としたわけで、第二の判決でも「真贋」の判断はしていないと聞いています。更にいえば、遺言状の問題に喜久夫氏はタッチしていないわけです。二つの遺言状のどちらが有効でも、あるいは両方とも真筆であったとしても、そのどちらも喜久夫氏にとっては著しく不利な内容のものなのであり、私にとってはそのどちらの遺言状も胡散臭いものでしかありません。私がここで遺言状に判断をしないのは、喜久夫氏にとっては「遺言状の問題」はまったく関係ないからです。従って、あなたがここで遺言状の問題を持ち出すのは、単なるイチャモンです)

ここはニューヨークでも、東の狂った京でもありません。(良くも悪くも)伝統ある都です。 喜久夫さんのことは、どうぞサポートして下さい。でも、一澤帆布の云々には、その論拠からは関与すべきではありませんし、この街の誰もが当然と認める結果に落ち着いたこのくだらないお家騒動に、今更
>少なくとも「一般に広く広まっている事」よりも「一般には語られていない事」のほうに多くの真実がある可能性を考えざるを得ないとか
>また、京都の中で店を立ち上げる事のできたのは京都の人間関係の中で一定の支持が有ったからだと推定できる(←すいません、現状の京都では、誰でも立ち上げることだけならできます)といった麗句で異論を差し挟む資格もありません。残酷ながら、これが古都です。
(あなたの議論は詭弁だらけです。「その論拠からは」とは、どのような論拠なのか、文脈から理解することはまったくできません。それに「この街の誰もが当然と認める結果に落ち着いたこのくだらないお家騒動」という具合に、また「京都を代表している」のですが、あなたはどのような資格でそのようなことを言うのでしょうか。
「残酷ながら、これが古都です。」という文脈も、意味不明の「麗句」(あなたにとって、ということです)で、「これが古都です」という文字が、どのような「古都」を指しているのか、おそらくあなた自身指摘できないでしょう。
私の記事は時間的に遺言状の問題よりも前に起こった、喜久夫氏に対する信三郎氏の行為を問題にしているのですが、あなたはそのことには反論せずに、記事とはまったく関係ない遺言状以降のことで自分の主張をしています。このような行為を「議論のすり替え」といいます。このような「主張」をするあなたに議論をする「資格はありません」。「残酷ながら、これがあなたの真実です。」)


ただ、僕自身は京都人ではありません。
(何処にお住まいで、何処で働いていますか? 先ほどから京都人を代表しているような事を書いておられますが、あなたがそのようなことを断言できる根拠を知りたいのです。)

だからこそ個人的に思うのは、純粋に、喜久夫さんは京都を出て活躍すべきだと思います。筋向かいのお店というのは、全く理解できません。このグローバルな時代だというのに… …そこに、主さんとは逆ですが、最後まで喜久夫さんを支持できない気持ちがあるのです。なぜ、それだけの優れたアイディアマンでありながら、その腐った古都の枠組みを出て勝負しようともせずに、クダラナイ(そして勝ち目のない)口げんかに参加しているのでしょうか…
(要するに「喜久夫氏は京都から出て行け」ということのようですが、生粋に京都人である喜久夫氏に京都人ではないあなたがこのようなことを言うのは、まったくもって筋違いな話です。「グローバルな時代」がこのあなたの主張とどのような関係があるのか、無関係な言葉で自身の主張を飾るのは「コケオドシ」の実例です。私もあなたの「クダラナイ」主張にお付き合いしたくありません。
なお、「京都人の夫」さん、あなたは自分の主張を組み立てるのに自分自身で何か調べましたか?自分で足を運びましたか? あなたが言っていることは全て俗説、多数意見を無批判に組み立てたものに過ぎません。そしてもっと悪質なのは、喜久夫氏に対しても、私に対しても誹謗中傷をしている点です。私はあなたを「誠実な議論の出来る人」と認めることはできません。)


以上が「京都人の夫」と称する人のコメントです。
残念ながら、「一語たりとも」まともな文章はありません。常人には出来ない芸当です。
私の「赤字の注」も、多少言葉の強い部分はありますが、このような誹謗中傷のコメントには怒りを感じます。
なお、「京都人の夫」氏とその前にコメントのあった方は、名前は名乗るものの、自身のメールアドレスさへ記載しないという点で、「言いっぱなし」を狙ったコメントだと疑われても仕方ないでしょう。
特に「京都人の夫」氏のコメントは、私は「荒らし」だと考えます。

私がこのコメントを「コメント欄」ではなくこの場所に注釈付きで掲載したのは、コメント欄に「無防備に」掲載することの弊害、何も考えずに感覚的にこのコメントを読むと、私の記事の主眼がうやむやにされたうえで、この「荒らしコメント」があたかも一つの意見のように存在してしまう可能性を考えたからです。私の記事のコメント欄を許可制にしているのも、このようなコメントを無防備に掲載しない為であり、一つの連続した文にせずに、ほぼ文節ごとに注釈を付けたのも、一つの文章として感覚的に(考えずに)読むと「誤魔化されてしまう」可能性を考えたからです。
「大声を出して討論をする」場であればこのような手法も「勢いで誤魔化す」という点で一定の効果はありますが、文章化し、冷静な検討を加える場では、このような論はアッと言う間にボロが出ます。

私の記事(通常の記事を含めて)を御覧になられる方は、おそらく「荒らし」という行為を見ることはあまり無いと思います。上記コメントはその「典型的なサンプル」としては価値があるかもしれません。

しかしながら、今後、このようなコメントは一切無視をします。時間の無駄です。
もし、ここで「言論の自由」を主張するならば、論拠不明の誹謗中傷で人の心を傷つけることは「言論の自由とは相容れない」とはっきり宣言します。

なお、実際に「荒らし」行為が有った為、この記事「帆布カバン 喜一澤」への反論のコメントについては次の制限を設けます。
 ・記事に対しての反論を述べる場合は、反論者のブログあるいはホームページURLを明記してください。
  この明記が無い場合はコメントを受け付けません。 
  なお、メールアドレスは不可とします。(メールアドレスは個人特定にはほとんど役に立ちません)

このような規制を設けるのは、発言される方がブログ等を持っているという点で一定の発言に対する責任を持っていることを求めたいからです。(ブログ、ホームページを匿名で行っている事自体はかまいません。社会に対し、常に一定の発言等を行っている方であることを求めます。)
なお、コメントの際には
・この記事をよく読むこと
・記事に貼ってあるリンク先の記事もよく熟読される事
・自身の意見に対して、客観的な論拠(公的な第三者のホームページなど)を示してください
最低限、上記の事をお守りください。 


なお、同日「清水」と名乗る方からのコメントも「荒らし」と判断します。
この記事では扱っていない、そして信三郎氏の発言の不適切さを問題としているこの記事の主題からは明かに関係の無い「遺言書」問題を持ち出して、論点のすり替えを行っているという点、そのようなすり替えの議論を、あたかも一つの論点であるかのようにコメント欄に露出させようとした行為、私の返答に対して結局何の再度の返答を返してこない点(この点は「京都人の夫」氏もまったく同じです)から判断します。
このコメントについては、とりあえずコメント欄に掲載しておりましたが、「荒らし」と判断した以上、通常のコメントとして扱う事はできませんので、コメント欄から削除の上、この追記に移動して掲載します。
「清水」氏のコメント
何があったにせよ、遺言状の偽造はやるべきでは無かったですし、やってはいけない事です。

私からの返答
清水さん、こんばんは。
「遺言状の問題」は色々な意見があると思いますが、それ以前の問題として、清水さんの「喜久夫氏が第二の遺言状に関わった」という意見(世間の俗説ですが)は事実誤認に基づくものです。
まず、清水さんご自身が「喜久夫氏が第二の遺言状に関わった」という点での確固たる証拠をお示しいただけるか、もう一度考え直してください。
次の点を検討してみてください。
信三郎氏の保持していた「第一の遺言書」での喜久夫氏の株の相続割合は「33%」
信太郎氏の保持していた「第二の遺言書」での喜久夫氏の株の相続割合は「20%」
つまり、「第二の遺言書」のほうが、喜久夫氏にとっては不利な内容なのです。 「第二の遺言書」の真贋については、最高裁で二通りの判決が出ていることから、ここで判断するつもりはありません。ここでの問題は、「第二の遺言書」について喜久夫氏が何らかの関わりがあったか、という点です。
もし、「第二の遺言書の作成前に信太郎氏と喜久夫氏の間で何らかの話し合いがあった」と仮定したとしたら、このような馬鹿げた相続割合になるはずは無いのです。
なお、「何か裏取引があったのではないか」というような「推論」に基づく意見はご遠慮いただきたいと思います。多くの人が「信太郎氏の評判の悪さ」を問題にしています。このような「評判の悪い」信太郎氏と「裏取引をする事」自体考えづらいことです。
また、「とにかく信太郎氏の一澤帆布に協力したから同罪だ」というような考えも、意見として取り扱うことはできません。私が記事に書いた事情を考慮すれば、喜久夫氏が信三郎氏に対して態度を硬化させたとしても特別不思議ではないからです。
私がこの記事を書いた時点で、「喜久夫氏に対して信三郎氏に非はなかった」という意見を誰かが確固たる史料を示した上でお聞かせいただけるのではないかと、機会を待っておりましたが、そのような意見はただの一度もなかったという点もここに申し添えておきます。
喜久夫氏自身、遺言状についてはまったくタッチしていないと語っておりますが、上記の事を照らし合わせれば、この事は事実だと思います。
このコメントをお読みいただいた方へ。 喜久夫氏は第一の遺言状にも第二の遺言状にも関わりが無い、つまり「蚊帳の外」だった事が事実である以上、清水さんと同様の意見については、今後同内容のコメントを頂いても掲載及び返答するつもりはありません。大概はこのコメントをお読みいただければ十分ではないかと思います。それよりも大切なのは、自分自身で調べ、考え、自分自身で足を運ぶ事だと思うのです


2012年5月25日追記 
今晩(24日夜)にとある人物からコメントがありましたが、この記事へのコメントの条件(自身のブログURL未記載)を満たしていない為、非掲載とします。もちろんメールアドレスの記載も無く、ハンドルネームに別の記事のコメント投稿者の名前に似せたものを使っている点を作為的と判断します。
(投稿者自身、文の中で”私のコメントも荒らしとみなされてしまうんでしょうね…。”などと書いています。ご希望通り、「荒らし」と判断させていただきます。)
あまりこのような文章は書きたくないのです。また私のこの記事を「邪魔」と考えている人たちも多いと思います。しかし人の心を弄ぶような「荒らし」と認定できるコメントに対しては、この記事の中ではその存在を認めることは絶対にしません。そのことははっきりと宣言しておきます。


2014年2月9日追記 
今まで全く気が付いていなかったのですが、先日Wikipedia「一澤帆布」の項目を見たときに、次の記述があることに気が付きました。
(以下、Wikipedia より引用)
信太郎、遺書の正当性を求め提訴
2009年(平成21年)6月、2000年に長男・信太郎と四男・喜久夫側が差出した『第2の遺書』が偽物とした最高裁の判決を不服とし、同年11月に今度は信太郎が信三郎夫妻を相手に京都地裁に提訴。会社の株主権や経営権などを求めた。しかし、2011年8月に京都地裁は、信太郎と信三郎の間に限定しての株式相続権のみ認め、その他は棄却した判決を下した。信太郎はこの判決を不服とし、大阪高裁に控訴する方針を示した。

高裁は信太郎が株主であることを認め、第2遺言が「偽造によるものであると認めることはできない」との判決を下した。
2012年(平成24年)11月、長男・信太郎が、一澤帆布工業㈱、三男・信三郎、妻・恵美、四男・喜久夫、その他1名を相手取り控訴した、その結果、信太郎に4万6180株の保有を認め、信太郎の持つ亡信夫の遺言、所謂『第2の遺書』が、「偽造によるものであると認めることはできない」との判決を下した。
(平成24年11月9日大阪高裁判決言渡、平成24年(ネ)第313号事件参照)

あまり話題になっていないような気もしますが、恐らくこの件は最高裁に舞台を移して審理されている為、結果待ちとなっていると思われます。高裁の判決から1年以上たっているので、おそらく判決も間近なのではと想像しますが、最終的な結果はまだ分からないと言ってよいでしょう。(口頭弁論が行われているかいないかで、おおよその結末は想像できますが、その点の情報はありません。)
あるいはこのWikipedia記事の信憑性についての問題かもしれませんが、ここではこの記述が正しいものとして以下の記述をします。
興味深い点として、信太郎氏が高裁に控訴した際に、喜久夫氏が「訴えられた側」となっている点です。
信太郎氏の遺言書が「偽造」ではないかとされていた当初、「信太郎氏と喜久夫氏が共謀した」というふうに強く主張する論調がありましたが、今回喜久夫氏が「訴えられた側」となっている事は、この主張が完全に否定されたものと考えてよいようです。もともとこの「共謀説」は「悪魔の証明」のような意味合いがあり、喜久夫氏の立場を貶めるような意味合いが強かったように思われます。
また、信太郎氏の遺言状が「本物」「偽造」のどちらだったとしても、この遺言書にかかわったのは信太郎氏のみだったと考えてよいようです。
この裁判の結果がどうなるのか、まだわかりません。信三郎氏が勝訴すれば今まで通りでしょう。もし信太郎氏が勝訴した時、「一澤帆布工業」とその商標権がどのようになるのか、私は注目したいと思います。なぜなら、信太郎氏が勝訴したとしても、単独で「一澤帆布工業」を再開し、鞄の製造を始めるとは考えづらいからです。まったくの第三者に株式・商標が譲渡されるというケースも考えられる、と書くのは「考えすぎ」でしょうか。
いずれにせよ、事の推移を見守る次第です。

2015年7月18日追記 
個人的には未確認なのですが、上記の信太郎氏提訴の裁判で最高裁の判決があったとの情報を寄せていただきました。
信太郎氏の勝訴が確定したようです。

    

    

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Posted by 旅人 at 00:49│Comments(24)京都府
この記事へのコメント
旅人さま、おはようございます。
喜一澤さんのお話、それこそ先週京都の知人と話して
いたところでした。
全国的にもかなり注目されたらしいですね。
もちろん地元の京都でもいろんな事を言う人が
いるようです。
でも、旅人さんのおっしゃるとおり、真実は得てして
外にはみえないものですよね。
様々な世界での内輪もめ?みたいなのがありますが、
人の意見や噂だけが一人歩きしてしまうんですね。
一番重要なのは、”良いモノを作り続ける事”だと
思うのですが・・・
すみません、また長くなりました(笑)
Posted by じゃすみんじゃすみん at 2010年08月21日 08:57
じゃすみんさん、おはようございます。
「一澤帆布」の問題は「お家騒動」というふうにかなり「興味本位」で報道され、語られているように思います。
なぜ「興味本位」と判断するか、それは報道自体が一方の主張のみ伝えている以外にも、そこから先を掘り下げようとする姿勢が一切見られないという点、またこの問題を捉える一般の人もまた、この問題の奥を見定めようとしないからです。
今回の「一澤帆布」の問題、私自身は表面上の報道や「きれいごと」のように造られた情報にだけ頼って判断する事の危険性を改めて教えられたように思います。
良いモノを作り続ける事、一番大切なことと思います。
一澤喜久夫氏は、そのカバン製作の姿勢に一本のしっかりとした筋があるように思えます。より永く、飽きの来ない「道具」としてのカバン作りに専念されていると思います。しかし、今回も「ゼロからの出発」となっており、商品種類の数も少なく、店舗自体見栄えがするとは言いがたいのですが、今の状態で判断せずに 二~三年後の商品種類が揃うまで、腰を据えてことの成り行きを見守って行きたいと思います。
Posted by 旅人旅人 at 2010年08月21日 12:41
はじめまして。
仕事仲間が持っていた一澤帆布のカバンをはじめて見たのは15年ほど前のことです。
素朴で力強い布カバンが気になり、気長にいつかそのうちと思っていたところ
「問題」は起きました。報道を見聞きするたびその中に腑に落ちない点があり、
それは次第に溜まり、「問題」が世間で話題にならなくなってからもずっと
気にかかっていました。そんなとき偶然ここを拝見しました。
遠くから見ていた自分が引っかかっていた多くの点が解消されたような、
そんな気がすると同時に、「何かがおかしい」と感じていた方がいらしたこと、
こうしてここに書かれたことが嬉しくなりました。
突然ぶしつけで失礼しました。また機会がありましたら立ち寄らせてください。
Posted by 花かつお at 2010年09月12日 14:28
花かつおさん、こんにちわ。

「一澤帆布」問題の件、かなり前から多くの疑問を感じていたのですが、実際に「喜一澤」を訪れ、一澤喜久夫氏と直に話をさせていただくという機会を得るまではそのことを書く切っ掛けを掴む事ができなかったのです。

今までそのことを書かなかったのは、世論の大勢に対して反対の意見を書くことに対して勇気を持てなかったと言う事であり、また 何の検証をすることもなく多数意見に乗っかる事の安易さへの疑問から、自分の意見に対して何らかの確証を求めていたからでもありました。しかし、このことを書くのが遅かったと言う思いが有ります。

本日、花かつおさんからコメントをいただきました。同じように、この問題に疑問を感じている方がいらした事を知る事ができ、うれしく思いました。

「一澤帆布」の問題は「遺言状」に始まるのではなく、「遺言状」問題のはるか以前に既に始まっていたといいます。
「多数意見が真理であるとは限らない」という言い方も独善に陥る危険があります。大切なのはどのような意見を採るにせよ、一度客観的な面で検証するべきである事だと思います。

本日はコメントを頂き有難うございました。
Posted by 旅人旅人 at 2010年09月12日 18:05
はじめまして、やっと真実の書かれているブログに
出会えてほっとしています。

私自身もカバンを見比べて
どちらが本物のカバンを作っているか
一目瞭然なのになぜみんなあっちに喜んでいくのか?
と疑問におもっていました。

よく世間の噂だけに流されずまた調べられて
きっちり書かれていると思いました
ブランド名と報道だけで買っている人が多い中

自分の目で見て確かめるということをされている
からこそ書けた記事だと思いました。

http://ameblo.jp/kyotozen/entry-10698524987.html
それに比べて私の記事フワッとしたこと、、、、、(><)
Posted by KyotoZEN at 2011年02月02日 16:08
KyotoZENさん、こんばんわ。コメント頂き有難うございます。

一澤帆布さんの問題は、一方の主張がいつの間にか「全てが真実」になってしまったように思います。その中には当然幾つかの事実はあると思いますが、その中に「一方の主張」や「一方がそう言っているだけ」といった類の話も織り込まれているように思われます。それらが渾然一体となって「全て真実」になってしまったようです。
そうした「一方の主張」の中で、客観的に誤りを立証できる部分について記事の中に書いたのですが、個人の能力・業績・人格を貶めるような「一方的な主張」はすべきではないと考えます。

この先はやはり「商品の出来」の比較になると思いますが、現状では「世論による善悪の判断」が影響している感は否めません。しかし、基本的なデザインは共通しているとしても、カバンの「凛として立つ」様な風格をどちらに感じるかという点で、私は「喜一澤」に一票を投じたいと思います。これは作り手の商品に対する自信・信頼から来るであろう外観のシンプルであるという点の「ブレのなさ」に由来しているように思います。
Posted by 旅人旅人 at 2011年02月02日 23:41
「うる覚え」
ではなくて
「うろ覚え」
ですよ。
Posted by 通 at 2011年04月06日 18:00
通さん、こんばんは。ご教授いただき有難うございます。「うろおぼえ」の「うろ」は空洞を指す「うろ(空・虚・洞)」が語源のようですね。それこそ「うろおぼえ」していたようです。ただし、ご指摘の仕方は少々礼を欠くようです。お気お付けください。
Posted by 旅人旅人 at 2011年04月06日 19:48
ブログ管理人の「旅人」です。
先ほど「京都人の夫」と名乗る方からコメントをいただきましたが、多くの問題を含むコメントであった為、コメント欄ではなく、記事の最後に追記として掲載しました。

なお、この記事のコメント欄に「荒らし」と思われるコメントが続きましたので、私のこのコメント以降、この記事に対してのコメントには次の制限を行います。
・記事に対しての反論を述べる場合は、反論者のブログあるいはホームページを明記してください。
  この明記が無い場合はコメントを受け付けません。 
  なお、メールアドレスは不可とします。(メールアドレスは個人特定にはほとんど役に立ちません)

このような規制を設けるのは、発言される方がブログ等を持っているという点で一定の発言に対する責任を持っていることを求めたいからです。
なお、コメントの際には
・この記事をよく読むこと
・記事に貼ってあるリンク先の記事もよく熟読される事
・自身の意見に対して、客観的な論拠(公的な第三者のホームページなど)を示してください
最低限、上記の事をお守りください。

なお、「賛成意見なら良いのか」との疑問も有るかと思いますが、問題となるのは「反対意見の中に紛れ込む”荒らし”」ですので、この点ご理解頂きたいと思います。
Posted by 旅人旅人 at 2011年04月06日 23:07
なんとなく良いカバンを求めて検索していたらこちらにたどり着きました

ここを見るまでは長男(四男)が一方的に悪い、三男が被害者だと認識していました
が、こちらで長男(四男)側の見解を見て、認識が大きく変わりました

もちろんここの記事を100%信じることも、これまでの三男側の主張をなんの疑いもなく受け入れてきたことと変わりないので両者の言い分を加味して自分で判断すべきだとは思いますが

少なくとも、長男(四男)のお店、三男のお店に対するイメージがかなり変わってしまったのは事実です

何も知らなければただ長男(四男)は悪者、三男のお店こそ一澤帆布だと盲目的に思っているだけだったと思います
知る切っ掛けを与えてくれてありがとうございました
Posted by mao at 2012年05月18日 14:07
maoさん、こんばんは。コメント頂きありがとうございます。

私自身、もし信三郎氏が長男信太郎氏との事のみを主張していたのなら、この件に関して何の疑いも感じなかったと思います。
しかし、喜久夫氏に対しての発言、特に「もう仕事はしたくない、好きなことをして暮らしたい。」という発言にふとした疑問を感じたことから、私自身納得すべくいろいろと調べてみたところ信三郎氏の主張に矛盾が出てきたということがこの記事を書いた理由の根幹にあります。
また、私自身は信三郎氏に対し厳しい見解を持っていますが、記事として表に出すには思い込みだけで書くことは出来ないと考えます。私は、厳密に中立な立場からみたとしても、信三郎氏の発言の中に重要な部分で修正されるべき点があるとうことについて、明示できる資料を基に記事を書いたつもりです。

私の感じた問題点については記事に書いてあるのでここでは繰り返しませんが、実は記事の中の最後の「追記」を書いた後で新たに確認したことがあります。
それは信三郎氏が「1996年12月 弟・喜久夫退社」と主張している1996年12月の時点で喜久夫氏は取締役の地位に継続して就いており、少なくとも登記簿上では退社していないことが確認できた、という点です。つまり私の確認できた1993年以降、”平成13年(2001年)11月に、任期満了による「退任」(事実上の信三郎氏による解任)”までの間、喜久夫氏は中断する事無く一澤帆布の取締役として在籍していたことになります。

このことはすでに「追記」の中で予測していたのですが、改めて登記簿という「公文書」によって確認できたことにより、喜久夫氏に対する信三郎氏の発言はきわめて信憑性を欠くと、私は判断しています。

確かに、「1996年12月」に喜久夫氏が何らかの理由で会社の第一線から離れたことはあると思われます。しかし、もし第一線から去ったとしても、その原因が「喜久夫氏の身勝手」などではなく、信三郎氏にも何かしらの原因があったのではないでしょうか。更に、信三郎氏は明らかに「退社」と明言しております。したがって、この問題の経緯について、信三郎氏の発言は明らかに不正確かつ意図的だったと思われます。そして、喜久夫氏が(仮にそうだったとして)第一線から去った理由をまったく述べていません。信三郎氏はなぜこのような発言をしたかについての弁明と、本当の事情を話すべきでしょう。

私は長男・信太郎氏に対しては見解を持っておりません。信太郎氏の持っていた遺言書は、客観的には明らかにバランスを欠くものと思われます。
しかしながら、私は信三郎氏の持っていた(現在正当とされる)遺言書に対しても同様のバランスの悪さ、不自然さを感じます。そして、喜久夫氏はそのどちらの遺言書作成にも関わりが無いという点で、二人の兄とはまったく別の立場であると考えています。

喜久夫氏は現在の店を開くさいに、信三郎氏の店の商品(おそらくプリント柄の商品)を「チャラチャラしたもの」と語ったことが知られています。このことを「対抗意識」と一般には認識されているようですが、私には長年帆布カバンの製造に携わった者、帆布という素材を信じている者のもつ「矜持」であると考えています。型紙の無い状態から現在の店にすることの出来た事実は、喜久夫氏に帆布カバン製作の実力と実績があったからだと思います。
あまり表に出ない人のようですが、私の印象は記事に書いたとおりです。

私は「一澤帆布」時代からの一ユーザーの立場でしかありません。しかし、公にされた「不正確な情報」を一度は信じたと言う点から、この件について意見を述べる権利はあると考えています。


maoさんへのご返事という枠から少し逸脱したかもしれませんが、この機会に新しく知った事実も含めて私の見解の補足をしてみました。
私は自身の見解を持っています。しかしながら、私がmaoさんにお願いしたいのは、(maoさんご自身がいわれているとおり)「自分自身で考えてみてほしい」という点です。
多くの人は調べる事無く、多数意見を「自分の意見」としてしまいました。しかし、多数意見こそ厳密に検証しなければなりません。

少し長く書きすぎたかと思いますが、コメントを頂きましたことを深く感謝いたします。
Posted by 旅人旅人 at 2012年05月18日 18:47
はじめまして、一澤のお家騒動を違う視点から捉えた内容に共感するものです。
一澤帆布のwikiのノートページはご覧になりましたか?
私にはどうも、元々の一澤帆布工業=一澤信三郎帆布というように、刷り込みをしたい人がいるようで違和感を覚えます。
事実、一澤信三郎帆布の会社概要には、創業が1905年となっております。
史実を変えたい一澤信三郎帆布?(当人か使用人か知人かはわかりませんが)が、㐂一澤(一澤喜久夫氏)に対して、恐怖でも感じているのでしょうか?
Posted by ダメオヤジ at 2014年10月10日 20:11
 ダメオヤジさん、コメントいただき有難うございます。
 wikiノートページを読んでみました。いきなりの「編集合戦」ではなく、まがいなりにも「討論」による合意形成が図られている点は評価したいと思いますが、その内容に少々強引なところがあるように読めます。(ネームタグについてのやり取りには笑わざるを得ませんでした。)
 もともと論争の有りそうな事例についてのwikiの記述を全面的に信用することなどできないと思っておりますので、私は「ああ、そんなものか」と思ってしまうのですが、このwikiノートの記述者にどのような背景があるのかは分からないまでも、何らかの操作というものはあるのかもしれません。創業年について、もし現在の裁判で高裁判決が維持されたときには、どのように書き換えられるのでしょうか。(もっとも、高裁判決が最高裁で確定したとしても、信太郎氏は過半数に近い株式は取得できても単独で過半数に達することはできないようです。かなり問題は複雑化するでしょう。)
 結局、私たち部外者には「何が真実か」を知ることは難しいのです。
 しかし、「語られていることが正しいか?」という点を検証することはできるはずです。
 今思えば、「信三郎氏が正しい」という世論は信三郎氏の主張を誰も検証することなくそのまま受け入れてしまったことに始まるように思います。確かに遺言書についてのイザコザは信三郎氏に有利な心象を世間に与えました。しかし、喜久夫氏に対する信三郎氏の発言が問題の多いものであることは拙文に書いた通りです。そして、(私が知らないだけなのかもしれませんが)信三郎氏が発信した「メッセージ」全体は複数の第三者によって裏付けが行われているのでしょうか。私には疑問です。結局、多くの人たちは冷静に検証することなく「信じてしまった」のです。
 信三郎氏は多くの発言をしました。しかし、その発言の中に不自然、不正確な事があり、また語られていないことがあった場合、そのような個所の発言と「言わなかったこと」は信三郎氏にとって不利な事であると想像します。しかし、信三郎氏は発言する機会や方法を持っています。もし信三郎氏が自身の立場を正しいと信ずるのであれば、私の疑問に対して信三郎氏が正しい情報を発信することは、むしろ信三郎氏の利益にさえなる筈なのです。
 喜久夫氏の一澤帆布内での立ち位置は(情報操作のためでしょうか)否定的に語られ、その印象が世間に流布しました。しかし、2度にわたって「ゼロから」店を立ち上げたという事例から見ても、帆布鞄・製品に対しての力量を察するべきだと思います。それゆえ、旧一澤帆布の中でもその功績は大きなものがあったはずなのです。(長男氏の「一澤帆布」HPの中に「従来の弊社製品のうち、50%以上のデザインをし、40%以上の製品を手直し・改良あわせて全体の90%以上を手がけ、 また「一澤帆布製」というネームタグを考案、カタログのイラストや包装用紙袋のデザインも手がけた」というふうに喜久夫氏の一澤帆布内での仕事を紹介していました。どの程度の正確さがあるのかは分かりませんが、信三郎氏がこの内容に反論したということも聞いておりません。)その様な力量を持ち、また「一澤帆布を辞めた経緯」についての正しい情報が伏せられている(と思われる)喜久夫氏の存在が「心穏やかなものではない」ことは事実だと思います。

 「鞄」という商品そのものに関しては「好み」の問題でもあるので選べばよいだけの話です。しかし不正確な情報によって商品に尾鰭をつけるのは愚かな事だと思っております。冷静さと「検証すること」が大切だと思います。
Posted by 旅人旅人 at 2014年10月10日 22:37
初めまして、Sueと申します。 実は台湾のある会社は一澤さんの鞄に大変興味を持ち、調査を頼まれています。 一連の騒動についてはインタネットに沢山の記事がありました。私たちは一番関心があるのは、本物に出会うことです。旅人様の記事を拝読させていただきました。もう一度、喜一澤さんと信三郎さんとの両方の鞄を検証したいと思います。 喜久夫さんの日本の職人の気質と真面目さをすっごく伝わってきました。ありがとうございました。
Posted by Sue at 2014年12月17日 13:47
Sueさん、コメントいただきありがとうございます。

鞄については実物を見比べることが出来ます。必ず実物を確認してください。
個人的には喜一澤(一澤喜久夫氏)の鞄は帆布という素材に対しての強い信頼感に裏打ちされた商品であると考えています。(一部の他商社とのコラボ製品を除いてプリント柄には手をださないという点にもそのことは現れていると感じています。私見ではプリント柄は帆布の風合いを損ねます。)「本物」という点では間違いなく本物です。

そして、できれば双方の店で鞄についての話を直接聞いてみることが必要だと思います。

Sueさんご自身でいろいろ感じてください。商品を選ぶということは感性に頼る点が大きいと思います。「相続」に絡む件での「多数意見」には惑わされてほしくありません。しかし、鞄を選ぶ際には、私の記事のことも忘れてください。鞄の実物を見比べてSueさんが考え抜いたうえでの決定については大切にしてください。

私の記事から「感じるもの」を持っていただいたことに感謝いたします。「おかしい」と感じたことを「おかしい」と書いただけなのですが、世間の多数意見や「正義」の定評を得た物に対しての反論は心理的に相当のプレッシャーがかかることを感じていました。このようなコメントを頂けることは、私がこの記事を書いたことに対しての強い「励まし」を感じています。
Posted by 旅人旅人 at 2014年12月17日 17:12
数年前から拝読させていただいております。
私自身も何度か(旧)一澤帆布や㐂一澤に寄せていただいており、初めて訪問した時(当時日曜定休であったのを何かの都合で店を開けておられていて、そのタイミングで彼女(現在の妻)の鞄(今でいうトートバック)を購入しました。)の受け答えが忘れられません。
その時の店主(喜久夫さんであろうと思われます)の丁寧な対応、いつでも修理しますというような事を仰っていた記憶が蘇ります。
数年前、あるシンガーソングライターがコラボされたショルダーが欲しくて妻に禁煙を条件に購入してもらい、大事に使っています。
一昨年は妻と母の鞄を求めに行きました。
旅人さんや他の方のメッセージを拝見する度、私も勇気づけられます。
ある意味、今のまま地味なお店で良い物だけを作り続ける、知る人ぞ知るお店を続けていただけることを願ってやみません。
乱筆、乱文 失礼致しました。
Posted by はじめまして at 2015年01月29日 13:46
”はじめまして”さん、コメントいただきありがとうございます。
 私の好きな音楽家の亡くなる少し前に受けたインタビューの中での一節を思い出します。
 「(私は)しかし音楽においては、いつも誠実で、正直でした。」

 この音楽を「帆布(帆布鞄)」に置き換えれば、喜久夫氏は帆布という素材に誠実であり、鞄のデザインに対して真剣な人だと言えると思います。しかし、自分自身を主張するのは得意ではないと思われます。たぶん、自身が良い商品を作ることで評価される、と信じているのではと思われるのです。その意味ではきわめて「職人気質」の人であり好ましいのですが、世間一般には(意図的な情報操作の影響もあり)誤解を受けているようにも思えます。
 「あるシンガーソングライターがコラボされたショルダー」のこと、たぶん"さだまさし"さんとのコラボのことかと思います。このことを「もっと宣伝すれば」と思うのですが、結局は表面に出さない、そういう人なのです。
 私自身は最近は京都に行く機会が無く、まだ新しい店を訪れたことはありません。しかし写真から感じ取れる範囲でも、店の雰囲気に「主(あるじ)」の個性が十分に感じ取れるように思えます。以前お話をお伺いした際「父(信夫氏)は店(商売)を大きくするな、と言っていた」と語られていました。今の大きさの店、自分の目の届く範囲で商品を見守ることのできる店が喜久夫氏の理想であり希望でもあると思います。
 「喜久夫氏の商品を愛する人々によって支えられる店」と言うのは大切な理想と思います。その反面、ユーザーの底辺が広がることは、喜久夫氏に対しての「誤解や中傷」が晴れていくという意味で大切であり、私はそのことも望みます。本来であれば「京都を代表する工房の一つ」として語られるのが当然の店なのです。私は「㐂一澤」がそのような地位を将来勝ち得るであろうと信じております。
Posted by 旅人旅人 at 2015年01月29日 22:35
こんにちは、はじめまして。
旧一澤帆布が大好きな一人です。色々と議論されておりますので訴訟の件については何も申し上げることはありません。ただひとつ、教えいただきたいことがあります。現在の喜一澤さんですが、このお店は喜久夫さんがなさっておられるお店で、信太郎さんは関わってらっしゃらないのでしょうか。喜久夫さんを相手取った裁判を起こされたのには驚きましたが信太郎さんはこのお店の役員に名を連ねてらっしゃらないのでしょうか。喜久夫さん単独のお店と考えてよろしいのでしょうか。喜一澤さんには一度入ったことがあるのですが、信三郎さんのお店の紙袋を持っていたせいか、もの凄く冷たい対応をされたので、その後一度も行っておりません。ちゃんとした事の顛末がどこにも書かれていないので私には現在の一澤帆布が結局どうなったのか、全くわからないのです。よろしければ教えてください。もし喜久夫さんが単独、信太郎さんと組むことなくやっておられるのでしたら、今一度おたずねしたいと思いました。よろしくお願いいたします。
Posted by 旧一澤帆布が好きです at 2015年03月03日 12:39
 「旧一澤帆布が好きです」さん、コメントいただきありがとうございます。
 まず最初に私の立場を申し上げますと、私自身は一澤帆布についての関係者ではありません。第三者の立場から見て疑問に思うこと、不審な点を書いております。ご質問の件についても正確な事は分かりませんが、いくつかの情報から推論することは可能です。

 つまり、最新の裁判では信太郎氏と喜久夫氏は争う立場になっているという点、また以前の裁判で信太郎氏の敗訴が確定した時点で信太郎氏と喜久夫氏は袂を分かったということを書かれた雑誌記事があったという点、また私が喜久夫氏のお話を伺った時点で喜久夫氏は信太郎氏に対して批判的だったという点から類推して喜久夫氏の店に信太郎氏は無関係であると思われます。

 現在一つの裁判が進行中である以上、「ちゃんとした事の顛末」はまだ確定していません。また、当事者が自ら公正中立的に顛末を語ることはあり得ません。今回の件について、信三郎氏は自身の立場を雄弁に、しかし開示された情報は限定的に語っているように思います。喜久夫氏は原則的に沈黙をしているように思います。(喜久夫氏の「沈黙」は自己を表現するのが不得手、自身の作った製品で判断してほしいというきわめて職人的な価値観からきているものと思われます。)

 また、第三者の意見は(私の記事も含めて)あくまでも「一つの意見」であり、その意見を多く参照したうえで自分の意見を作らなければなりません。真実は教えられるものではなく自分で見つけ出すものです。私自身は一般に出回っていた多数意見に疑問を持ち、自分自身で考察を重ねてきました。多数意見を読んでいると、そのほとんどは一つの意見の「鵜呑み」に過ぎないと思えたからです。そして、現在も一つの大きな疑問に突き当たっています。(そもそも一番最初の裁判で争われたのは「遺言書の真贋」だけだったのか?もっと大切なことが審理されていなかったか?最初の裁判を「遺言書の真贋」の観点のみで語るのは迂闊な事だったのではないのか?)ちゃんとした「真実」が語られていない以上、疑問は絶えることがありません。

 喜久夫氏の店で不快な思いをされたとの事、確かに信三郎氏の店の袋を持っていたとなると体験されたことが起きたことは十分に考えられます。どうしても「信三郎氏の店の紙袋」を持っていると疑心暗鬼を生ずることがあると思います。致し方ないと考える反面、店の方にも「大人の対応」に心掛けた方がよいのでは、ということも言えます。出来ればもう一度、今度は「白紙」の状態で訪れてみてください。「喜一澤」を訪れたことを書いた個人ブログを見る限り、対応はむしろ良いとの評価が多いように思います。

 多少ご質問の内容から逸脱した部分もあるかと思いますが、ご参考いただければ幸いです。
Posted by 旅人旅人 at 2015年03月03日 21:29
初めてまして。
感謝をお伝えしたくてコメントします。
帆布屋さんについての詳しい感想をupして頂きありがとうございました。

私は事実(客観的)は一つしかなく、真実(主観的)はいくつもあると思っています。
(で、正義もいくつもあると福山雅治さんが歌っていました。)
ですから、いつもマスコミ報道は、世間話の知識程度しか記憶にとどめていません。
先日、京都でお店の前を通り、過去のことを思い出し、興味本位で検索したら貴HPに辿り着きました。(私のような人は多いでしょうね。)

気になったのは、『京都人の夫』さんのことです。
この人は『京都人』を妻にした『他府県出身』の旦那さんだと思います。
だからこその、語れる京都があるのではないでしょうか。
それも一つの正義でしょう。
そうお怒りになりませんよう。

この騒動を思い出して、改めて【職人】は難しい職種だなあと感じました。
そしてたいていの老舗で兄弟は袂を分かつんだなあと。
深く考えさせられました。

膨大な資料や情報を整理されて、さぞ大変だったと思います。
読ませて頂きありがとうございました。
Posted by sakura at 2020年01月04日 15:11
sakuraさん、コメントいただき有難うございます。
何しろ10年近く前の記事についてのコメントだったため少々驚いておりますが、それだけありがたくもあります。
最近はこの件についての発言を控えておりますが、それは第三者である立場上、今までに分かったこと以上の情報を持ち合わせていないから、というのが大きな理由です。

しかしながら、この間にも疑問に思うことが出てきています。

例えば「信太郎氏の保持する遺言状」についての一番最新の判決は「有効」なのですが、信太郎氏勝訴にもかかわらず信三郎氏がいまだに一澤帆布の株式の半数以上を保持しているのはなぜなのか、という点です。信太郎氏が勝訴することによって得た株式に「喜久夫氏の持つ株式」を合わせれば過半数以上になる筈なのですが、そうはなっていないという点。信三郎氏は何処から自身の過半数を維持するための「大量の株式」を、「何所から」「どのような経緯で」取得することが出来たのか、という事が明らかにされなければならないのですが、「幾らかの想像」はできても「想像」である以上、疑問は疑問として置いておくより他はないようです。

sakuraさんへのご返事という枠からは逸れてしまうのですが、良い機会ですのでもう一つ疑問を提示しておきたいと思います。

実は、公開はしていないのですが今までいくつかの「荒らし」コメントを受けております。不思議な事にコメントの一部に裁判での問題を「遺言書の偽造」という点に固定したがっているというものがありました。(後述の「京都人の夫」氏が「(二通の遺言書を)両方を照らし合わせれば、偽物であることはどんな法曹の方でも認めるでしょう」という威勢の良いことを書いておりましたが、実際のその「法曹の方」の現在の最終判断が「本物」である、というのは皮肉な事です。)
「遺言書の偽造」問題に関しては、その判断材料として「真筆か否か」という問題とともに「‏問題の遺言書に書かれている『事実関係』が正しいか否か」という点も明らかにされなければならない筈なのです。(信太郎氏の保持する遺言書には父信夫氏が信三郎氏に対して否定的な見解を述べているようです。)そして「遺言書の真贋」について裁判所が判断する際、当然事実関係についても何らかの判断が行われていると想像できるのですが、その点についての判断材料が何一つ示されていないのです。この点は、私にはかなり重要な事のように思えますが、この疑問を解消するためには今回の問題のすべての裁判判決文が公開される必要があります。しかし、第三者である私にとっては、その「希望」はあっても、それらを読むことは望むべくもないでしょう。

蛇足ではありますが、そのような疑問を持ち続けているという点を、ここでは書き留めておきたいと思います。

sakuraさん、「事実(主観的)はいくつもある」とおっしゃいました。全くその通り、立場によって語られる「事実(正義ともいうでしょうか)」は複数あることは事実です。ただこの小文を書いたときの問題意識は、幾つも有るべき「事実」の内の「一方的な一つの事実」のみが大きく語られ、もう一方の考慮されるべき「事実」が置き去りにされているという点についての、余りにも大きな疑問を感じた、という点にあります。
しかし、この点をただ「感情的」に書き立てても、そのことに価値は感じません。少なくともこの小文を書くにあたって私は事実関係を(わかる範囲ではあっても)調べなおし、そこで分かった範囲においてのみ疑問を提示したつもりです。(そのことはsakuraさんにも評価してもらえたようです。)

sakuraさんは「京都人の夫」氏についても「一つの正義」であると言われました。しかし、私の見解は違うという事をお伝えしなければなりません。「京都人の夫」氏の投稿分の中に「客観的な事実」に基づいた「真実」は何一つなかったと理解しております。その論理が「支離滅裂」であったことは私の付けた「注釈」によって明らかになっております。また、「京都人の夫」としての立場からでなければ語られえないような「京都」もなかったと認識しております。つまり、私にとっては「京都人の夫」氏が「京都人の夫」であるか否かはどうでもよく、そのことを詮索するのは時間の無駄とさえ考えます。「京都人の夫」氏の目的は「コメント欄」に普通に掲載されることによる「印象操作」であったものと判断しました。残念な事ですが、「京都人の夫」氏の文は「一つの正義」などと言える代物ではないのです。そして、この「京都人の夫」氏の文章の不誠実さを、私は許すことが出来ません。sakura三とはその点について認識の違いがあるかもしれませんが、どうかご了承ください。

いずれにせよ、「京都人の夫」氏の問題は私の文の中では本筋から外れるものなのでこれ以上深入りする必要はないと考えております。 

私が知る事の出来た「公開していない」情報を寄せていただいた方の話の中には、この「一澤帆布」問題が「気難しい職人たちによる行き違い」とは全く違った「人間模様」を語られたものもありました。いずれにせよ「客観的な情報」でないものはどのような立場のものでも取り上げることはできないのですが、興味深いものではありました。ただ、私自身の出来ることはこれが限界であるように思えます。私自身がこの小文を掲載することに当たっては、掲載することの是非についての自問や、掲載した後のプレッシャーの大きさ等、それが大きな負担であったことを語らねばなりません。それでも掲載したのは「疑問に思っても語らないのは、一方の当事者に対しての消極的な利益供与になる」という意識からでした。だから、この文章は今もって取り下げる必要はないと思っております。しかしながら私自身には新しい資料、情報等はありませんので、これ以降新しい発言をすることは多分ないだろうと思います。この先の展開は新たに問題意識を持った人たちが引き継いでくれることを願うものです(できる限り地元の人で。その方がいろいろな資料等が手に入りやすいのではないか)。sakuraさんもご自身でこの問題を深めていただければ幸いです。そして、sakuraさんへのご返事の場を借りながら、この件についての多分これが私の最後の発言になるであろうことを予測しながら、筆をおきたいと思います。
Posted by 旅人旅人 at 2020年01月05日 02:00
ここに書くのは事務的な訂正です。
2015年3月7日に投稿された2軒のコメントについてのものです。どちらも発信者が「旅人」になっておりました。しかし、正確には3月7日最初の投稿文の投稿者は「旧一澤帆布が好きです」さん、それに対する返答の投稿が私「旅人」となります。これは「私ははるか昔、信三郎さん、喜久夫さんとはお話したことがあります。」とのくだりが原文では「私ははるか昔、信太郎さん、喜久夫さんとはお話したことがあります。」となっていたのを原文の発信者である「旧一澤帆布が好きです」さんからの依頼によって私が訂正したうえで掲載したのですが、「eしずおか」ブログのシステム上投稿文の訂正が出来ないため、私の方で投稿文を新たに訂正して投稿した際、投稿者の氏名を訂正せずに投稿してしまったために起きた間違いです。あらためて確認しますが、正しくは、3月7日の最初の投稿者は「旧一澤帆布が好きです」さんで、その次の返答のみ「旅人」の投稿となります。5年前の間違いを今頃になって気が付いたのは全く間抜けな話なのですが、いずれにせよこのままの掲載では誤解と混乱を招く可能性があるため、当該の二つのコメントを削除したうえで投稿者名を訂正した正しいコメントを正しい順序で、此処に掲載しなおします。したがってここでのコメントは2015年3月3日投稿の2軒のコメントに続けて読み直してください。


2015/03/07 17:11 投稿 投稿者 「旧一澤帆布が好きです」さん

お返事ありがとうございます。喜一澤さん、是非行きます。私ははるか昔、信三郎さん、喜久夫さんとはお話したことがあります。とても魅力的なお二人です。今回の騒動、どうしても信太郎さんへの不信感がぬぐえませんでした。お会いしたことのない方に対してこんな思いを持つのは失礼なのですが、その信太郎さんについた喜久夫さんというイメージがあって、どうしてもお店をおたずねできなかったのです。ご兄弟、いろいろなことがあってもたとえ一緒にお店をすることができなくても、それぞれ相手を尊重したお品作りをなさって、一澤頒布さんの作品を作り続けていってほしいというのが旧一澤頒布大好き人間の希望です。あの場所でお二人が作品を売られているというのはきっと何かあのかなと、勝手に想像しています。喜一澤さん、絶対行きます。そのきっかけを作ってくださった旅人様に深く感謝いたします。私、本当に一澤のかばん、大好きです。ずっとずっと、京都に残ってほしいです。ありがとうございました!!。


2015/03/07 17:12 投稿 投稿者 「旅人」

"旧一澤帆布が好きです"さん、再度のコメントありがとうございます。
 「喜一澤」さんへはぜひ行ってみてください。
 喜久夫氏がなぜ信太郎氏についたのか、という点は私見を持っておりますが、今詳しく書くことは(想像の部分もあるため)ためらいもあります。それでも簡単に述べるのなら、当初喜久夫氏は事態の推移を見守るつもりだったのでは、踏み込んで言えば(これは想像ですが)兄弟間の和解も考えていたのではと考えております。(この想像をしたのは信太郎氏の遺言書の中にある「兄弟仲良くするよう」という覚書の一部分を理由に喜久夫氏はこの遺言書を「多分本物なのだろう」と信じた、という話を読んだことがあるからです。)しかし、信三郎氏による事実上の「解任」を受けて、選択肢は信太郎氏への合流しかなかった、言い換えれば信三郎氏が喜久夫氏を信太郎氏の側に追いやってしまった というのが真相なのではないのか、と想像しています。元々信三郎氏との間に確執があったとしたら、何かの糸が切れたらそのような方向に進むのは当然のことのように思います。
 いろいろな事情があるかとは思いますが、現在の喜久夫氏を過去で評価するべきではなく、現在の店を静かに見守ってもらいたいと思うものです。
Posted by 旅人旅人 at 2020年01月05日 02:30
この間、喜一澤さんと信三郎さんをハシゴしました。
正直、喜一澤さんの方がモノづくりがしっかりしていると感じました。
信三郎さんは今風な感じでしょうか。
それまで大勢の人と同じく、信三郎さんの偽物というかあまり良い印象を持っていませんでした。
そこで改めて騒動を調べ直していたところで、このブログを発見しました。
品物の良さ納得です。
大きな誤解をしたまま過ごすところでした。
ありがとうございます。
Posted by ひろ at 2021年09月22日 10:02
 ひろさん、コメントいただき有難うございます。
 この記事も書かれてから11年経過しました。
 恐らく、この11年の間、両者を取り巻く世間の印象などはほとんど変わりないものと思われます。事実関係を自分自身で確認し検討するという事は世間ではほとんどされることはないようです。
 最近では一般的な「報道」に対しての「ファクトチェック」と呼ばれる検証の必要性が語られています。この「一澤帆布問題」も、「ファクトチェック」に近い厳密な検証が必要でしたが、すべては印象によって善悪の判断が行われてしまったようです。
 現在の主義主張における発言では「発信力が強い事」がそのまま「正義」となってしまうようです。しかし「発信力の強さ」と「主張の正しさ」は必ずしも同じとは言えず、むしろ「声の小さい主張」に真実を発見することも多くあります。
 ひろさんはご自身で両方の店舗を訪ねたうえで、自身の目で何かしらの判断をされたようですが、それは大切な事だったように思います。この記事は、信三郎氏への賛意賞賛で占められている世論の中では喜久夫氏寄りの意見表明となった部分は大きいのですが、それ以上に「自分自身でよく考えてみてください」という呼びかけでありました。少なくとも理性的とは言えない世論の偏りに対しては、誰かが疑問点を提示したうえでその偏りを正す必要があったと思います。しかし、それは非常に困難な事です。そしてこの記事を書くことについて感じたプレッシャーは非常に強いものでした。
 私自身は外部の人間であり、事実関係の把握には限界があります。それ故、この件についての発言はよほどの事が無い限りもうする予定はありません。(「よほどの事」とは、例えばこの件についてのすべての判決文が公表されて、新しい事実などが明るみになる、といったような事です。)また、この件については「白黒がハッキリとしかなり入り組んだ事実関係がある入り組んだ事実関係があるように思えます。それ故に「遺言状の偽造」の真偽だけでこの件は全て解決するとは思えません。

 11年前の記事へのコメントですが、この件についてはまだ風化していないという事を強く感じた次第です。
Posted by 旅人旅人 at 2021年09月22日 22:38
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