2010年05月23日

馬籠

馬籠


昔の旅人なら、妻籠から馬籠峠を越え
あとは一気に馬籠まで下り坂を歩いていったのだろう

私は車での旅だったから、この間は自家用車で行き
更に馬籠宿の麓側に車を預けたから
散策は下から上へとなった
でも話は高札場から始める




(パノラマ写真 写真をクリックしてください 表示された画像をもう一度クリックすると拡大します)

馬籠峠から下ってきたがまず見たのは高札場だろうか
この高札場はおそらく復元なのだろう
そしてその横に一寸した広場がある



(パノラマ写真 写真をクリックしてください 表示された画像をもう一度クリックすると拡大します)

「馬籠上陣場」と言うその場所からは恵那山と馬籠宿の諸口が見える
遥か向こうに見える街並の影は中津川市街だろうか

そして、この場所には次のような記念碑もある




確かに前回ここに来たとき、馬込は「長野県」だった
馬籠(山口村)の生活圏が中津川市の圏内に属していた為の越県合併だったが
「馬籠は美濃の国だ」と言われても一寸ピンとこない
さりとて「信濃の国だ」と言われてもやはり同様だろう
結局馬籠は「美濃の国」でもなく「信濃の国」でもなく
「木曽路」の圏内なのだと思うことでようやく納得できる






馬籠の町並をあとで思い出そうとすると、少し戸惑う事がある
坂道の印象が強すぎるのだ
ここは、確かに出桁造りの民家が軒を連ねているのだが
何故か坂道の印象がまず先に思い起こされ
そのあとに「さて、どんな建物があっただろうか」という順番になってしまう
それほど坂道の中にある宿場町の印象は強いのだが
少なくとも馬込宿の中を移動する限りでは、坂道がきつくて耐えられないという印象は無い
「宿場町を散策する」うちにいつの間にか上まで達している
また坂の町ではあっても山間部と言う印象は無い
それは、先の中津川までの間、峠を越えることは無いからかもしれない
意外なまでに街並の印象は明るい

(追記、馬籠宿と次の落合宿との間に十曲峠があり、難所とされていたようです
 そのため「峠を越えることは無い」と書いたのは間違いだったようです)



(パノラマ写真 写真をクリックしてください 表示された画像をもう一度クリックすると拡大します)







坂道の印象が強い、とは言っても
一つ一つの家屋は旅籠屋の面影をとどめる出桁造りの家屋が多い
もっとも、もともとの古い町並みは1895年(明治28年)と1915年(大正4年)の大火で
そのほとんど全てが失われてしまったという
現在の建物はそれ以降の復元で、幾らか現代的にリファインされたような部分もあるように思える
(目立たない部分にアルミサッシを使うなど)
しかし、街並に雰囲気をとどめているように思えるのは
おそらく基本は大正の頃の復元で、まだ以前の面影の記憶が生きていた時に町を再生したからでは無いだろうか

妻籠以上に「商売っ気」を感じてしまうのは難点といえば難点、しかしそれは止むを得ない






あと、もう一つ印象に残る帆は、道の両端の水路、流れ下る水の音、絶えることは無い



(パノラマ写真 写真をクリックしてください 表示された画像をもう一度クリックすると拡大します)

その水の流れは馬籠宿終端に近い所で水車を回す
この水車のあるところは枡形となっており、旧街道の面影を偲ぶ事ができる






その枡形の上にはバイパス状に新しい道がなだらかなクランク状に曲がる




そして馬込宿の終端、木曽路はここまでとなる
私の長野の旅もここで終わる

今回訪ね歩いた場所のほとんどは以前訪れた所ばかりだった
印象の変わらなかった場所、新しい側面を認識した場所
何も考えずに心を開放した場所、深く考えさせられた場所
時には快楽的であり、時には禁欲的でもあった
その多様な印象は、そのまま放置しておくと「なんとなく」私の心の中だけで納得する事で終わる

「なんとなく」ではなく「しっかりとした形」で残そうと思った
まだ、自分の思ったことを思ったように綴れないもどかしさを感じながらも
ようやく書き終えた、ということに安堵している

しばらくは、次の旅のことを夢見る事にしよう

「そこが日本である限り、何処へでも行ってみたい」




にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 静岡(市)情報へ にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ

同じカテゴリー(岐阜県)の記事画像
飛騨古川 「三寺まいり」 (2024年1月)
飛騨古川 三寺まいり
岩村城址
岩村 街並み
明知鉄道 岩村駅
郡上八幡 (3)
同じカテゴリー(岐阜県)の記事
 飛騨古川 「三寺まいり」 (2024年1月) (2024-02-16 01:41)
 飛騨古川 三寺まいり (2020-01-23 13:04)
 岩村城址 (2012-09-29 12:48)
 岩村 街並み (2012-09-28 01:21)
 明知鉄道 岩村駅 (2012-09-23 01:35)
 郡上八幡 (3) (2012-09-19 01:09)

Posted by 旅人 at 21:29│Comments(4)岐阜県
この記事へのコメント
旅人さま、こんばんは。

「なんとなく」ではなく「しっかりとした形」で残そうと思った。
まだ、自分の思ったことを思ったように綴れないもどかしさを感じながらもようやく書き終えた、ということに安堵している。

しばらくは、次の旅のことを夢見る事にしよう。

「そこが日本である限り、何処へでも行ってみたい。」


う~ん・・・まさに私の教祖さまです。

思ったように綴れないもどかしさ・・・わかる気がします。
その時の感動や気持ちってやっぱり表現するのって難しいですよね。
ましてや、人に伝えることはもっと大変。
完璧に伝えられないからこそ、人間なんだと思います。
何か硬い文章ですみません・・・。
Posted by じゃすみんじゃすみん at 2010年05月23日 21:54
じゃすみんさん、こんばんわ。
いつも「書くこと」と格闘しています。
「人を傷つけるような事以外ならば、何を書いてもいいんだ」と自分に言い聞かせながらも、どこかでひいてしまうような書き方をしている。かと思うと、絶えず自分の中に忍び込んでくる「見栄」、なんとも思っていないのに「素晴らしい」などと言ってないか、表面的に人に心地よく響きそうな事を言ってはいないか、自分を良く見せようとしていないか、という「見栄」の誘惑も、絶えずあるのです。
もともと書くことが苦手で、また避けていた私と、純粋に自分を表現してみたいと考えていた私の、相反するものを沢山抱えた中でともかく始めたブログも二年半を過ぎました。
今は、「自分自身を正直に表現できること」が目標なのです。
完璧には程遠いのですが。
Posted by 旅人旅人 at 2010年05月24日 00:46
旅人さん♪

こんばんは!

綺麗に整備された宿場町ですね~。
何か昔の時代に戻って、止まる場所を探している自分がいました。

今までの宿場の完成形のような印象を受けました。
当時もこのような石畳だったのでしょうか?
あまりに綺麗過ぎて、わらじも痛みがすくなかったのでは・・・なんていうことを感じました。

今までの宿場町を通して、当時の旅人が宿場町の楽しさを感じ、次の宿場へと期待しているのでは・・・と錯覚するほどでした。
ナレーションが素晴らしさが、この感覚を引き立たせているのは勿論です。
Posted by しもちゃんしもちゃん at 2010年05月24日 20:37
しもちゃんさん、こんばんわ。

 昔の道はどのようなものだったか、この点について現在石畳が敷かれているから昔も石畳だったのだろう、と根拠なく考えていました。
 この点について少し調べてみたのですがよくは分からなかったのです。
 まず、馬込宿のホームページでは「町並みの道路は昭和41年頃までは未舗装の土路で、雨が降ると川のようになり歩きにくく大変でした。そのあとコンクリート舗装がされ所々に石畳が残る程度でした」とあります。ここからは「石畳はなかった」と読み取れそうな反面、「所々に石畳が残る程度でした」と言う記述の中に元々は石畳が敷かれていたかもしれないという想像も働きます。
 旧中山道の妻籠・馬籠間にも所々石畳があったようですが、馬籠から中津川方面への次の宿場・落合宿との間に十曲峠と言う難所があり、そこに「落合の石畳」と言う旧街道の石畳が現存しているそうです。写真で見る限りでは、大変立派な道です。
 旧街道で石畳が用いられることはほとんど無かったようですが、急な坂道などは土砂の流失を防ぐという意味もあって石畳が用いられていたようです。
 馬込宿に昔から石畳が敷かれていたか、と言う点については確証は得られなかったのですが、坂道で有るという事と近くの「落合の石畳」が現存しているという点から、馬込の道にもきっと石畳が敷かれていたのだろうと想像しています。
Posted by 旅人旅人 at 2010年05月24日 21:59
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
馬籠
    コメント(4)