2019年12月22日

ヘンデル メサイア (グランシップでの演奏会)

ヘンデル:オラトリオ《メサイア》 HWV 56

鈴木雅明(指揮)
ジョアン・ラン(ソプラノ)
オリヴィア・フェアミューレン(アルト)
セイル・キム(テノール)
ロデリック・ウィリアムズ(バス)
バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱・管弦楽)

2019年12月20日 静岡・グランシップ中ホール「大地」

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メサイアを演奏会で聴くのはずいぶんと久しぶりのように思う 
おそらくは11年前に東京で聴いて以来だろうか 
その時の演奏団体も今日と同じバッハ・コレギウム・ジャパンだから 
メサイアに関してはこの楽団と随分と縁があるのかもしれない 

素人の耳には、多分以前の演奏とそう違いはないように聴こえたかもしれない 
しかし、合唱と歌手の編成には一つだけ違いがあった 
11年前にはアルトの歌手とパートには 
カウンターテナーが混じってたのだが 
今回は「アルトパートは女声」に限っていた 
それがどのような効果を持っていたのかは分からないが 
今日の合唱は全編にわたって純度の高い響きを保っていたように思う   続きを読む


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2018年12月25日

メサイア

今年も年末となってしまった 
歳をとるにつれて時の流れをより早く感じるようになるのだが 
それにしても今年のそれは例年以上のものだったように思う 
忙しかったわけではない 
むしろ無為に過ごしていたというほうがよい 
充実感が無いから余計に時の流れを早く感じたのだろう 

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2017年10月15日

テレマン パリ四重奏曲

ゲオルグ.フィリップ.テレマン 
パリ四重奏曲第3番 ト長調
パリ四重奏曲第4番 ロ短調
パリ四重奏曲第5番 イ長調
パリ四重奏曲第6番 ホ短調

アンコール 
G.Ph.テレマン
パリ四重奏曲第1番 ニ長調 第6楽章

青島由佳(フラウト・トラヴェルソ)
櫻井茂(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
小玉安奈(バロック・ヴァイオリン)
戸﨑廣乃(チェンバロ)

(2017年10月14日 静岡音楽館AOI


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「テレマン パリ四重奏曲」
この演奏会告知を見たとき 
私はまず自分のCD棚の中にこの曲を探した 
確かにそこには開封された
(しかしほとんど聴いていない)この曲のCDがあった
この曲の印象はほとんどなかった 

あらためてCDをかけてみたのだが 
「ターヘルムジークのテレマン」の面影を認めながらも 
「耳に心地よい音楽」以上の印象はなかった 

しかし、このような曲こそ
演奏者と同じ空気の中で聴かなければならないことを痛感した

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2015年07月25日

マーラー「大地の歌」 コレギウム・ムジクム静岡演奏会

静岡で「大地の歌」がどれほど演奏会のプログラムに載ったことがあるのか 
私は正確には知らない 
少なくともフルオーケストラでの演奏は、市内では私の記憶にはない 
(もっともずっと静岡市内にいたわけではないからその点不正確なのだが) 
室内楽版は以前シンフォニエッタ静岡の定期で演奏されたはずだが 
私は聴いていない 
変則的な形(ダンス・パフォーマンスとの共演)で室内楽版の第六楽章が演奏されたこともある 
静岡で「大地の歌」を聴くのは貴重な機会のように思える 

先日、コレギウム・ムジクム静岡というアマチュアの室内オーケストラが 
室内楽版の「大地の歌」を演奏した 

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2015年01月17日

マーラー 交響曲第4番 



何故か、マーラーの第4番のCDに手が伸びた 
この曲を知っている人ならば 
屈託なく聴くことのできる楽しい曲であることを理解しているだろう 
指揮者のワルターはこの曲のことを「音楽のメルヘン」と呼んでいたらしい 
確かに、この上ない「メルヘン」だと思う 
しかし、この音楽は子どもの為のメルヘンではない 
大人の為の、ある種「ほろ苦さ」を感じさせる「メルヘン」のように思える  続きを読む


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2014年10月26日

ペロティヌス 「地上のすべての国々は」

音楽の最初は単旋律だったと思う 
そして多分単純な和音だったり対旋律がついて 
少しだけふくらみが出てきたのだろう 
和音や対旋律は二つが三つになり、四つになり 
さらに複雑化していったのだろう 

12世紀の中旬にはそうした音楽が伝わるようになる 
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2014年08月11日

マーラー 交響曲第三番について

いま、久しぶりにマーラーの第三番を聴いている 
「夏の交響曲」第三番は
私には「童心への郷愁」のように聴こえる 
若き日には、かえってその事が判りづらかった 
聴きにくい曲のようにさえ思えた 
しかし、今は 
この曲の全編にわたって「懐かしさ」を感じる 
それは底知れぬ「無邪気さ」を伴っているように思える 
途中で「ニーチェ」を持ち出してこられても
その印象は変わらない
表面的な美しさは、この曲の中にふんだんにある 
しかし、この曲の中の随所にちりばめられている「懐かしさ」に気が付いたとき 
私は胸が締め付けられるような切なさを感じる 
それは
もはや私がいくら手を伸ばしても届かない 
はるか彼方へ離れていった 
私の中の「童心」に対しての回想なのかもしれない 
そう
「童心への郷愁」は第6楽章になって「回想」となる 
「美しい」かもしれないのだが 
私にとっては切なさが勝る第6楽章 

ただ、作曲者はまだ若かった 
曲の最後には 
まだ「輝かしい未来」を信じている若き作曲家の姿がある 

だからこそ 
曲の至る所に聴こえる「童心への回想」が 
私には切ない   


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2014年03月04日

ブラームス 交響曲第4番

「ブラームスはお好き?」と聞かれたら 
多分「好き」だと答える 
もっとも、そのすべてが好きと言う訳ではない 
聴くのは交響曲と若干の室内楽 
それと「ドイツレクイエム」ぐらいのものだろうか   続きを読む


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2014年02月09日

シベリウス 祝祭アンダンテ(3)

シベリウスの曲についてもう一つ続けて書きたい 

「祝祭アンダンテ」については今まで二回書いたことがある 
私にとって最愛の曲の一つであり 
この曲についてはヤルヴィ/エーテボリS.Oの録音を紹介した 
私の聴いた中ではその演奏が一番良いように思っている 

よく知られていることだが 
この「祝祭アンダンテ」については 
シベリウス自身が指揮した演奏が残されている 
シベリウス自身もこの曲を愛していたという   続きを読む


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2014年02月08日

シベリウス 交響曲第一番について 

シベリウスの交響曲の中で 
初期の作品は民族的な要素が色濃いという 
交響曲第一番も 
その当時の状況を反映した 
悲劇的な雰囲気を持つ力強さにあふれる   続きを読む


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2014年02月01日

ハイドン 交響曲第53番「帝国」

ハイドンは104曲+αの交響曲を作っている 
そして第1番から第104番まで、そのすべての曲を聴くのが楽しい 
このような作曲家は他にはいないだろう 

しかし、その100曲以上ある交響曲すべてを聴き通すと 
時には「おやっ」と思うこともある 

交響曲第53番ニ長調 
「帝国」という愛称のついている曲は 
落ち着いた、ゆとりのある音楽で始まる 
それ以前の曲には少し思いつめた 
心の揺らぎを感じさせるような曲が多く見受けられたように思う 
そのことを思うと 
この曲の少し前あたりから音楽に余裕ができてきたように聴こえる 
(もっとも、ハイドンの交響曲の順番は作曲順ではないうえ 
 実際の順番はかなり入り組んでいるらしい )  続きを読む


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2014年01月28日

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第13番




決して音楽を聴くことに限ったことではない 
あるものの「幅」を広げるのには 
何かしらのつながり(リンク)が必要になる 
ベートーヴェンを聴き始めたら 
次は「ベートーヴェンの他の曲」をたどるようになる 
交響曲のジャンルに集中したのなら 
次は「モーツアルトの交響曲」を聴いてみようか、と考えてみる 
そんなふうにして、聴く曲の数が増えていく 

「初めての曲」を聴く理由は 
何かしらの理由があってその曲を「一本釣り」する場合と 
リンクをたどった結果その曲に行きついた場合とがあると思う 
ベートーヴェンの13番目の弦楽四重奏曲を聴いたのは 
「ベートーベンの弦楽四重奏曲」という繋がりからだった 
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2013年01月07日

メンデルスゾーン 交響曲第2番「賛歌」

年が明けて、最初に音楽を聴こうとするときに 
「さて、何を聴こうか」と迷う 
というよりも、「新年」ということで構えてしまう 
連続した「時の連なり」のはずなのに、「新年」という言葉には何かしら魔力がある 

人それぞれなのだが 
年末に聴く音楽は、一般的には「第九」という風になっている 
クリスマス時期には「メサイア」がそれに加わる 

正月は「ウインナワルツ」と相場が決まっているのだが 
最近ではもう少し別の曲を聴きたいと思っていた 

そう思いながら、CD棚に目をやる 
そういえば、メンデルスゾーンの曲に「賛歌」という副題のついた交響曲があった 
かなり以前に求めてあったサヴァリッシュ指揮のCDを久し振りに聴く 

「交響曲第二番」となっているが、「交響カンタータ」という呼び名もあるようだ 
楽曲の区切りも「第一楽章・第二楽章・・・・」という一般的なものでなく 
全体を「第一部・第二部」とし 
さらに細かく第一部を「第1番」、「第2番~第10番」まで(声楽によるカンタータ部)を第二部とする 
また、「第1番」は実質三楽章構成になっているから 
第二部を一まとめにした一つの楽章と考えると 
ちょうどベートーヴェン「第九」のような曲になる 

正月だからいくらかでも晴れやかな曲を、と思い選んだのだが 
歌詞の内容は聖書からの引用による宗教色の濃いもの 
その意味では「第九」の様な普遍的な性格が薄れ 
それゆえの「行事」として使用できるような人気を得ることはないかもしれない
だが、音楽の中にある力強さと、部分的には「感動的」な場面もある 
良い曲だと思う 

金管の荘重な響きで始まる(このテーマが全曲を統一する)第一部も 
聴きやすい、そして力強さと何処か優美な響きのある優品と思うが 
やはり聴き物は第二部のカンタータだろう 
第一部冒頭のテーマが主役となる 
「カンタータ」だから、第二部は音楽としては細切れになるが 
最後は冒頭主題を力強く合唱して終わる 

しかしそれだけだったら、私はここでこの曲を取り上げなかったかもしれない

この曲で私の耳の中に響いている一つの場面 
第6番(テノール・ソロ)はある種の緊張感を持って歌われる 
”われらは暗闇の中で叫んだ
 「夜回りよ、夜はやがて去るのか?」” 
旧約聖書から引かれた言葉のようだ 

「夜回りよ、夜はやがて去るのか?」という 
緊張感にあふれたテノールの音楽的な「叫び」 

すると、この「叫び」に、ソプラノは高らかに歌う 
「夜は過ぎ去った」 
 
そしてそれに続いて合唱が「夜は過ぎ去った」と力強く歌い上げていく(第7番) 

この部分、「音楽的なつながりのよさ」という点では、冷静に聴けば私は少し唐突なように思えるのだが 
そのことを乗り越えて、この部分に感情的な高揚を覚える 

もしかしたら、私や私の住むこの国の現在になぞらえているのかもしれない 
「夜は過ぎ去った」という高らかな声に、何か希望に似た高揚を感じたのかもしれない 

全体的には平凡でも 
ある1か所の「光」のために一つの曲を愛することがある 
メンデルスゾーンの交響曲第2番「賛歌」においては 
私にとってこの部分が「光」となって降り注いだように思う 

(ただ、一つだけ間違ってもらっては困ることがある 
 現代社会の問題において、私は間違っても「救世主」を求めようとは思わない 
 「私が救世主だ」「私が正義だ」と声高らかに言う者を 
 安易に信用するな、疑ってかかれ、と 
 私の人生経験は教えてくれた 
 どのようなことでも、よく考える、筋を立てて考えなければならない 
 安易に信じること、「大きな声」に惑わされ、思考することを捨てて同調することを 
 私はしないよう注意している ) 


さて、「賛歌」は晴れやかな曲だが新年のための曲として書かれたわけではない 
メンデルスゾーンには新年のために書かれた詩編曲がある  

「詩編98番 ”主にむかって新しい歌を歌え”」 

バスのソロが上昇音階で「主にむかって新しい歌を歌え」と力強く歌い上げると 
それを受けた合唱が無伴奏で目の積んだ音楽を展開していく 
そして後半には管弦楽も加わって力強く音楽を作り上げていく 

新しい年の幕開けとしてふさわしく 
私は先の「賛歌」とともに聴いた (ミッシェル・コルボ指揮のCD) 

年が明けてまだ日が立っていないからこのような文章を書いてみた 
なお、私はキリスト教徒ではないから、少しだけ読み替えてみたい 

「新しい年に向かって、新しい歌を歌え!」  
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2012年12月28日

ヴィヴァルディ  グロリア RV589

テレビCMでクラシック音楽が使われることはよくある 
大方は落ち着いた感じのCMだと思っていたのだが 
ここのところ、「何だってこんなところに?!」と思うような使われ方をするケースもある 

最近のかつらメーカーが行っているCM 
華々しい金管と鋭いパーカッションの音楽に乗せて「増毛」の宣伝をしている 
あまりに派手なパーカッションの「行進曲風」に最初はごまかされていたが 
どうも何処かで聴いたことがある 
パーカッションの部分を引き算して記憶をたどってみると 
なんとヴィヴァルディの「グロリア」、最初の器楽による序奏の部分だった 
ヴィヴァルディの曲は楽天的な明るさを持つが 
「グロリア」はれっきとした宗教曲だ 
さすがにこの取り合わせには驚いた 
それに、「何処かで聴いたことがある」どころの騒ぎではない 
学生の頃、歌ったことがあるのだ(ただし抜粋でだが)  続きを読む
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Posted by 旅人 at 15:13Comments(2)音楽

2012年06月29日

ベルワルド 交響曲第三番「サンギュリエール」

「面白いけれど、つかみどころのない曲」なのか 
「つかみどころのないけれど、面白い曲」なのか 

しかし、第一楽章最初の音が出た瞬間から引き寄せられる 
「めっぽう面白い曲」なことは確か 

曲の始まりは一小節ごとに「ド」「レ」「ミ」「ファ」「ソ」と言った具合に 
オクターブ以上を上昇していく 
その一音ごとに、その音の周りを簡素に装飾していくだけ 

「”ドレミファソラシド”の上昇音階に装飾をつけて、短い曲を作りなさい」と言った練習課題のようにさえ聴こえる 
まことにつまらない曲の始まりの筈なのに 
その単純な上昇音階を包み込む「周りの音」が簡素ながらも魅力的に聴こえる 
そして、その「周りの音」はふくよかに膨らんでいく 
それは「穏やかな日の出」 
その日の出は、夏のギラギラした太陽でもなく 
冬の寒さに凍える中に見るものでもなく 
「春の穏やかさ」をもっている 

そんな雰囲気に誘われて、ついつい30分足らずの全曲を聴き通してしまう
でも、第一楽章を聴き終えたとき 
「メロディーは何処にあったんだろう?」と考え込んでしまう 
動機(短い旋律)を積み重ねたパズルのような曲のよう 
形が捉えにくいから「つかみどころがない」 
けれど「面白い曲」、聴いていてワクワクする 

第二楽章は「ドラ焼き」
二枚の皮(ゆっくりとした音楽)の間に餡子(スケルツォのような軽快な音楽)がはさまれている 
「コロンブスの卵」的なアイディアの音楽 

第三楽章は、今までの明るさ、穏やかさとバランスをとるかのように 
少し暗さを帯びた、速い音楽 
しかし最後では明るいファンファーレで終わる 

聴き終わってみると、第一楽章の印象が際立っているように思う 
ベルワルドというあまり知られていないスウェーデンの作曲家 
音楽界の中心から離れていたからだろうか 
自分の好きなように音楽を組み立てることが出来たのだろうか 
実験精神旺盛なのだが 
それを越えて第一楽章は魅力に満ち溢れる 

目の届かないところに、魅力的な音楽はまだ多く隠されているようだ  
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2012年01月26日

チャイコフスキー 交響曲第五番 (中学生のための音楽会)

チャイコフスキー 歌劇「エフゲーニ・オネーギン」から ポロネーズ
           交響曲第5番ホ短調 作品64

指揮:川瀬賢太郎
日本フィルハーモニー交響楽団

(2012年1月26日 静岡市 グランシップ中ホール・大地)

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チャイコフスキーの小品一つと交響曲第五番が聴けて500円 
これならば、時間の都合さえ付けば、聴かなければ勿体無い 
そう思い、いそいそと出かける 

県内中学生の音楽鑑賞会に割り込む形 
僅かながら一般席が準備されていた 

一曲目は「エフゲーニ・オネーギン」の中の"ポロネーズ" 
この曲は知らない、舞踏会の場面の曲らしい 
一本調子のようにも思えたが、長い歌劇の中のひとコマだからそれもいいだろう

そして交響曲第五番、久しぶりに聴く 
陰影はあるが、全体的におおらかな曲のように思う 

演奏は、良くも悪くも「(指揮者は)若いな」と感じさせられた 
はつらつとした、スピード感のある演奏 
比較的テンポを動かすようだ 
好感の持てる演奏 
でも、スピードを上げて、オーケストラを目一杯慣らさなくても 
いくらかテンポを落として、ずっしりとした音を出して迫力をつけることもできるはず、という意味で 
まだまだ若さに頼った部分はあるように思う 
しかし、変に薄っぺらいようなところ、不自然なところは無かったから 
十分に曲を楽しむことができた 
必ずしも完成されたものだけが尊いわけではない 
「成熟」に向かって進んでいる過程も聴くべきだろう

アンコールに、弦楽セレナーデ第2番の第二楽章

演奏以外で気になったことを一つ 
交響曲を始める前の、指揮者のスピーチで 
「教科書的な知識のことは一切忘れて、自由な想像力で曲を聴いてほしい」と言ったこと 
それはその通りなのだが 
まったく初めての子や関心の薄い子にとっては戸惑ってしまうのではないだろうか 
何か「プロの知恵」のようなもの 
「このような聴き方もある」「こんなところを注目して聴いてみたらどうか」みたいな 
「導き」を多少加えても良いのではないだろうか 
(そのようなことをやっていたのが故山本直純さんの「オーケストラがやって来た」という昔のTV番組)
オーケストラを聴く(「音楽を聴く」と言っても良い)ことは 
一種の「魔法の時間」に入り込むことなのだから 
オーケストラがどんな「魔法」を使っているのか、プロの言葉で語りかけることができれば 
興味が増すのではないのだろうか、と思う

(私としては、初心の方には「テンポを感じながら聴く」ことをお勧めしたい 
 音楽の表情の変化で、「テンポの変化」は一番わかりやすいと思うからだ 
 一定だった速度がある時速くなる、あるいは遅くなる 
 4拍子だった音楽が部分的に3拍子になる、などといった変化があるとき
 そのような場所では作曲家や演奏者が何かしら工夫をしようとしている、「聴かせようとしている」ということを 
 感じやすいように思える 
 また、「テンポを感じる」ということを意識するだけで、聴くことの集中度が増すように思う 
 もし、明日この演奏会を聴く中学生の方がこの記事を読んでいたら 
 何かしらのヒントにしていただけたらと思う )  
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2011年12月25日

ブラームス 弦楽六重奏曲第2番

晩年のブラームスは豊かなひげを蓄えた、皮肉屋の親父だった
作る音楽も「謹厳」、そしていくらかの「悲哀」

例えば、彼の弦楽四重奏曲は、何処までも重々しく、苦みばしった
聴き通すのに「人生の修練」を要求されそうな曲
残念だが、積極的に聴こうとは思わない

しかし、「青年」ブラームスは「美男子」だったという
そして、たぶん「ロマンティスト」だったのではないだろうか

彼の青年期の作品、弦楽六重奏曲第2番を聴く
此処でのブラームスは、何処までも雄弁、筆は走り、自分の思いを語りつくす  続きを読む
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2011年11月27日

シューベルト ピアノソナタ第21番

イェルク・デムスのコンサートに出かけたのは一週間前の11月20日だった 

ブログ記事にはピアノ曲のこともときに書くことがあるのだが 
実際には、ピアノ独奏曲はあまり聴かない 
シューベルトのピアノ曲に至っては、まったく耳にしていない 

お誘いを受けたデムスのコンサートは、オール・シューベルト・プログラム 
曲目だけならば、当惑したといっても差し支えない 

しかし、”イェルク・デムス”について、以前他で書かれていたブログ記事を読んで興味を持っていた
(ブログ「音楽と社会の時間」より 「自分よりも音楽を愛する人」) 
そのような興味の為、このコンサートに出かけることにした 

ただ、プログラムを知ったのはコンサート二日前 
事前にCDで聴くことの出来たのは一曲だけで、ほとんど予習する事無く聴くことになる 
そのような状態の為、プログラムの前半「三つの楽興の時」「四つの即興曲」について 
その詳細や感想を書くことは出来ない  続きを読む
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2011年10月29日

「ヨハネ受難曲」を聴きながら考えたこと

前の日曜日、富士のロゼシアターへ行ったのは
バッハ「ヨハネ受難曲」を聴く為だった
このときに考えたことを、もっと早く書こうとしたのだが
書き始めてすぐに筆が止まった

バッハの宗教曲、あるいはその他の作曲家の宗教曲を聴くとき
何らかの違和感、戸惑いがあることを
もう何年も前から感じていた

それは、「キリスト教の信者」ではない私がキリスト教の宗教曲を聴くことの意味
宗教曲のもつ「普遍性」とは何か、という点だと思う

クラシック音楽を聴くようになって
また、学生の頃合唱団に属していた経験もあって
その流れの中で宗教曲を聴くようになった

宗教曲は、特に美しい響きがするように思う
そのことを理由に宗教曲を聴くということも当然ある

しかし、キリスト教自体には
その文化的な面への憧れと
実際に歴史の中でキリスト教が果たした「負」の役割
(帝政ローマの時代には、確かにキリスト教は迫害された
 しかし、権力を握ってからのキリスト教は
 反対者への弾圧、「キリスト教」の名による戦争など
 決して宗教の理念を具現していなかったように思う)
に対しての疑問を感じていた

今回も、そのことを書きとめようとしたのだが
この数日の間に、考えは二転三転した
そして、もっとも基本的な二つの点にいきついたようにおもう

つまり、私自身は「聖書」に対してほとんど知識を持っていないこと
したがってこのことを考えるのであれば、聖書を読み込まなければならないという点

そして、私が疑問に思っているのは、「組織としてのキリスト教」であって、イエス・キリストに対してではないという点

イエス・キリストが「神の子」「救世主」であるか否かは別として
イエス・キリストが何を言い、どのような行動をしたのかを確認しなければ、先に進まないだろう

私はキリスト教徒ではないから、「教祖の無謬性」を気にする必要はない
「イエス・キリストは罪なくして十字架にかけられた」という点は常に強調される
しかし、ある本で「イエス・キリストは、罪ある人である」という考え方を読んだとき
目からうろこが落ちたような感想を持った
つまり、イエスは安息日に病人を治療してはいけないという掟を破り
また、ライ病の患者に触ってはいけないという掟も無視したという
イエスは掟を破った「罪ある人」となったというのだが
それは「人への愛のため」に、「罪を引き受けることができた」というのだ
(もし、イエスの「愛」を学ぶとしたら
 それは「清く正しく」、罪を犯さない中での「愛」ではなく
 強い信念を持った「愛」で無ければならない、ということなのだろう)

聖書のすべてが「普遍的」であるとは限らないが
「普遍的な部分」があるという点は間違いない
そのことをもう一度確認しなければならない

ただ、「ヨハネ受難曲」に限って言えば
余りにも、余りにも、「キリスト教」的色彩を持つ曲のように思える
それは、一種の「教祖の無謬性」に貫かれた内容と感じられるからだ
組織としての「キリスト教」の、「イエス・キリスト」への公式見解といったもののように思える
その点が引っかかる為か、この日の演奏でも「心から感動した」というわけには行かなかった
バッハの「音楽」に惹かれるものは有っても
まだ、心の中ではなにかが邪魔をしているように思える

「富士ベートーヴェンコーラス」による演奏は
市民合唱団のレベルを超えていたという点で、予想を裏切るものだった
これだけしっかりとした歌唱で聴けるとは思っていなかった
独唱者も、日本でのバッハ演奏を専門としている人がそろっていたようだ
特にエヴァンゲリストを歌った畑 儀文氏は、二年前にシュナイトさんの指揮で「ヨハネ」を聴いた時にも歌っていた人
日本においてのエヴァンゲリストの歌い手として代表的な人のようだ
「物語の語り手」として、よく演奏の主導権を握っていたように思う
福島章恭氏の指揮は、奇をてらったところのないものだったと思う
曲を安心して聴くことの出来る、まとまった演奏だった

バッハの宗教曲を聴くと、何か「宿題」を常に課せられているような気になる  
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2011年08月14日

ベームの「運命」





カール・ベームが亡くなってから、もう30年になった
ラジオ放送と録音を聴いていただけだが
少なくとも晩年の「生きている」ベームを「同時代」の人間として聴いていたから
30年たった、という時間的な距離を、この指揮者に感じることはない
この「同時代」体験が、私の心の中で、それ以前の「名指揮者」たちとベームを分けている
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