2011年11月27日

シューベルト ピアノソナタ第21番

イェルク・デムスのコンサートに出かけたのは一週間前の11月20日だった 

ブログ記事にはピアノ曲のこともときに書くことがあるのだが 
実際には、ピアノ独奏曲はあまり聴かない 
シューベルトのピアノ曲に至っては、まったく耳にしていない 

お誘いを受けたデムスのコンサートは、オール・シューベルト・プログラム 
曲目だけならば、当惑したといっても差し支えない 

しかし、”イェルク・デムス”について、以前他で書かれていたブログ記事を読んで興味を持っていた
(ブログ「音楽と社会の時間」より 「自分よりも音楽を愛する人」) 
そのような興味の為、このコンサートに出かけることにした 

ただ、プログラムを知ったのはコンサート二日前 
事前にCDで聴くことの出来たのは一曲だけで、ほとんど予習する事無く聴くことになる 
そのような状態の為、プログラムの前半「三つの楽興の時」「四つの即興曲」について 
その詳細や感想を書くことは出来ない

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シューベルト
即興曲 変ロ短調 D935 「ロザムンデ変奏曲」
三つの楽興の時  D780
四つの即興曲    D899
ピアノソナタ第21番 変ロ長調(遺作) D960

ピアノ:イェルク・デムス

(2011年11月20日 清水区 ルードウィッヒホール)

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演奏会が始まる前 
「デムスさんは雑音(咳、プログラムをめくる音など)を大変気にする」との注意があった
受付には、咳を抑える為のキャンディーなども置いてあったぐらいだ 
そのため演奏会の最中、そのことが気になってしまった 
パイプ椅子の軋み音や些細な「音」は聞こえたが 
そのことが演奏に支障を与えることは無かったようだ 
しかし、「四つの即興曲」の二曲目が始まってすぐに、比較的大きな咳の音 
即座に演奏が止まり、デムスさんが何事かつぶやいた後、最初から二曲目を弾き直した 
そのときは一瞬「ギック」としたが 
弾き直した二曲目(ワルツ)は、心なしか「荒れた」ものを感じたように思う 

この日の演奏では、1928年製ベヒシュタインのピアノで演奏された 
このピアノは現在日本にあるのだが 
過去には、若き日のデムスさんが愛用されていたものだという 
ピアノの音色の聞き分けに自信はないが 
芯のある音の周りに柔らかいベールがかぶさる音のように思えた 
ベヒシュタインはベルリンのメーカーだが 
その音の柔らかさは、シューベルトに合っているのかもしれない 

前半のプログラムは今まで聴いたことのなかった曲だったから 
曲の印象をはっきりと頭に植え付けることは出来なかった 
しかし、このピアノの持つ軟らかさを感じさせる響きは 
楽器としての「ピアノの手柄」なのか 
この「楽器」を知っているデムスさんによって弾かれた結果なのか 
という点に思いをめぐらせながら聴いていた 


後半のピアノソナタ第21番もほとんど知らない曲だったが 
たまたま手持ちのCDが一枚だけあり 
かろうじて、前の日に「予習」をすることが出来た 

最初に奏でられるメロディーは、歌曲のように響く 
きっとバリトンが歌うような落ち着いた響き 
何かを回想するような、物思いに耽るような雰囲気 
しかし、すぐに低音のトレモロで遮られる 
前の日に手持ちのCDを聴いて気になったのはこの部分だった 
シューベルトならば、この旋律の後を無限に続けることが出来たはず 
なのに、なぜこの「低音のトレモロ」で旋律を遮るのか? 
曲は、この「低音のトレモロ」の後、「最初からやり直す」ように旋律を改めて弾き直し 
その後はしばらく旋律が続くが、またもや「低音のトレモロ」で流れを遮られる 
この「低音のトレモロ」は、第一楽章のいたるところで出てくる

演奏会で改めてこの部分を聴いたとき 
ピアノ音色の柔らかさが、冒頭の旋律を夢見心地に感じさせたがゆえに 
この「低音のトレモロ」は、なお一層「不気味」なものに感じた 
第一楽章全体に、何かの「(不吉な)予感」を感じさせるかのように 

確かに、この曲ができたのはシューベルトの死の二ヶ月前 
その事実を持って、この「低音のトレモロ」に「文学的」な見解を持つこともできるかもしれない 
ただ、この「低音のトレモロ」は、メロディーをさえぎることはあっても「音楽」をさえぎることはないようだ 

「低音のトレモロ」は、この時代においての「新しい響き」だったのかもしれない 
「低音のトレモロ」は、それが現れるたびに「曲の新しい展開」の前触れとなるようだ 
それは、この曲の中で作られた一種の「約束事」として、聴く者の心に植えつけられているように思う 
「低音のトレモロ」の中には、後半にグリッサンドで下降して 
その後の転調に導くものもある 
そのようなトレモロを聴くと、シューベルトの感性に「天才的」なものを感じてしまう 
これはほとんど感覚的なもののように思える 

デムスさんの演奏会を聴いた後 
この一週間というもの、この曲ばかりを聴いていた 
もう一度、あの深いメロディーと「低音のトレモロ」を 
自分の心の中に植えつけようとしていた 
その意味を、自分の心の中で探ろうとしていた 

あの「低音のトレモロ」は、美しいものではない 
しかし、美醜にかかわらず、心の中に深く忍び込んでくるもののように思う 

第一楽章・第二楽章は「彼岸の音楽」のように響くが 
後に続く第三楽章・第四楽章は曲調を変えようとしている 
デムスさんが自ら寄せられたパンフレットの楽曲解説には 
この超越論的で、来世を一瞥した二つの楽章の後には、
世俗的に捉えられる二つの楽章が続く。
しかしシューベルトは生きていて、
彼の聴衆と共に過ごしに再び地上に戻ってきたがっているのだ。

と述べている 

しかし私には、この後に続く二つの楽章も 
少し憂いをともなった曲のように聴こえた 
第一楽章の印象があまりに強い為か 
後の楽章はいまひとつ心に捉えられていないのだが 
第四楽章の少し暗さを感じさせる音楽の最後で 
それまでの雰囲気を払拭するかのように快活なコーダが奏された時 
私にはそれが、同じシューベルトの「弦楽五重奏曲」終楽章コーダの裏返しのように思えた 
(弦楽五重奏曲のコーダでは、それまで快活で楽しげだった音楽が 
 最後の最後で、まるで「悪魔の登場」であるかのように、不協和音で終わる
 この曲も最晩年の作品だ) 

とりあえず、デムスさんの演奏会をきっかけに一週間の間聴いていたシューベルトのピアノソナタについて 
「私の覚書」程度の感想をまとめてみた 
惜しむらくは、この曲のことをもう少し把握してからデムスさんの演奏を聴くべきだった、ということだろう 
しかし、今まで聴こうともしなかったシューベルトの第21番のソナタに目を開く機会を与えてくれた 
デムスさんの演奏会に、感謝したいと思う 

タグ :音楽



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Posted by 旅人 at 23:51│Comments(0)音楽
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