2011年08月14日

ベームの「運命」

ベームの「運命」



カール・ベームが亡くなってから、もう30年になった
ラジオ放送と録音を聴いていただけだが
少なくとも晩年の「生きている」ベームを「同時代」の人間として聴いていたから
30年たった、という時間的な距離を、この指揮者に感じることはない
この「同時代」体験が、私の心の中で、それ以前の「名指揮者」たちとベームを分けている

何年も前の記事で、ベームが77年に来日した際に
FM放送で聴いた「田園」のことを書いた
「田園」は、77年のベームが最高で
それ以外の演奏は、ベーム自身の演奏も含めて、どこかに不満を持ってしまう
それは、「なつかしの演奏」というセピア色の思い出ではなく
確固たる名演
- 充実した響き、遅いけれどこれ以外には無いと思わせるテンポ設定 - だと信じている
今でも意見は変わらない

そのとき、「田園」の後で「運命」も演奏した
クラシック初心者が、ともに初めて体験する「田園」であり「運命」であった
「田園」とともに「運命」もまた、唯一無二の「宝」となるはずだった
しかし「運命」は、なぜか「田園」ほど心に残ることは無かった
確かにベームの演奏を録音したカセットテープを聴いているだけならば、これ以上のものは無かった
他の演奏でベームよりよい演奏に出会うことも、ほとんど無かった
でも、名演の誉れ高い「田園」の後での「運命」は
どこか力が入りきれていないような雰囲気があった
名演の「田園」に対し、「運命」は標準品だったのかもしれない

そして、後になって、有名なフルトヴェングラーの47年盤を聴くにいたる
月並みかもしれないが、「運命」の「ひとつの理想」を此処に聴いたことで
ベームの「運命」は、「思い出」のみの演奏となった

もちろん、ベームの「二種類のスタジオ録音」も聴いた
ウイーン・フィルとの録音は
これなら来日公演のほうがよいのでは、と思った
ベルリン・フィルとのモノラル録音は、引き締まった演奏だが
ベーム/ウイーン・フィルの、余裕のある響きとは、印象が違っていた

何か釈然としない思いが、ベームの「運命」にあった
「運命」の場合、他の指揮者での名演が多くあるのだから
それで満足すればよいのだが
此処で私の心に引っかかったのは
「同時代体験」だったように思う

つまり、「同時代」の人であったベームに対しては
他の誰でもない、”ベームの演奏で「運命」の名演を聴きたい”という思いがあったのだ
それが、「同時代」を体験した指揮者に対しての
私の心の中にあった、隠れた「執念」だったようにおもう

以前の「田園」の記事では、思い出の演奏との再会を「不正規盤のCD-R」で果たしたことを書いた
この記事でも「不正規盤のCD-R」に登場してもらうことになる
しかし、「田園」のときのような「劇的な再会」ではない
以前、東京に出かけたときには、秋葉原のCDショップに行き
「不正規盤のCD-R」の棚の中から、ベームの演奏の中で目に付いたものを買い求めていた
そうした中に、これから紹介する「運命」のCD-R盤も含まれていた

この演奏は1975年8月、ザルツブルク音楽祭でのもの
この年の3月には、ウイーン・フィルと
音楽ファンの中で「語り草になっている」来日をする
75年来日時のベーム/ウイーン・フィルは「恰幅のよい」演奏をしていたように思う
そして、私にとっては「同時代」以前の来日演奏のため、冷静にこれらの演奏を聴いてしまう

しかし、75年ザルツブルクでのベーム/ウイーン・フィルで聴くことの出来たCD-R盤の演奏
それは「運命」のほかにも、「田園」やシューマンのピアノ協奏曲にその特徴を聴くのだが
来日時の「恰幅のよさ」を少し後退させ
その代わりに比類ない緊張感を充実した響きの中で実現した
まれに見る名演の数々だったように思う
(「田園についてのみ、77年来日時の演奏のほうがよい
 緊張感がわずかに強すぎるように思う)

このときの「運命」が、実にすばらしい
ベームのよさは、「確固たるテンポ設定」にあるように思う
ベームは常に「正しいテンポ」で演奏している

それが、時には演奏をつまらなくする事もあるかもしれない
しかし此処ではそれに加えて、緊張感と、特に金管の響きの充実が聴き取れる

特に第4楽章がよい
金管の充実した響きは、音の圧力さえ感じさせる
しかも音楽を忘れさせるようなことは無い
所々地響きを立てるトロンボーンの音
ここで聴こえてくる楽器間のバランスも「必然」なように思える
金管が底を割って響き渡っても、それは「そうでなければならない」と思わせる

音楽のクライマックス
フルトヴェングラーならば、テンポを加速させ音楽を熱狂させる
ベームは多少の加速は有っても、これ見よがしではない
しかし、音楽は比類なく緊張していき
全楽器は聴くものに圧力を加えていく

そして、この頃のベームは、たぶん「楽譜に書いてある通り」に演奏していたと思える

あくまでも素人の耳による印象だが
時々、ベートーベンの曲の中で、ひとつの旋律の途中で楽器が変わってしまうことがある
有名な例は「英雄」第一楽章の終結で
旋律を吹いていたトランペットが途中で伴奏に回ってしまう、あの部分なのだが
「運命」や「田園」でも、そのような例を聴くことが出来るように思う

「運命」の最後、トランペットが鳴り響くのだが
その旋律の最後に差し掛かったところで、突然弦に旋律が移ってしまう
たぶん、当時の楽器の性能のためにそのようにしたのだろうと思う
伴奏に回ったトランペットは、旋律を邪魔しないように音を弱めるのが普通だ
(手持ちのスコアを見てみたが、このトランペットの部分
 最初にフォルティッシモで吹き始めた後、伴奏に回る部分でも音を弱める指示は無い)

しかし、ベームはこの部分でトランペットの勢いを弱めない
最後まで強奏させている
そのためコーダは比類なき感情の高まりを見せる

私はこの録音を聴いたとき
初めてフルトヴェングラーを忘れることが出来た

「運命」の前に演奏された「田園」も、77年時の演奏と比べなければ大変な名演だから
このときの聴衆は、たぶん「何十年に一度」の時をすごしたに違いない

同じ時期に活動していたカラヤンなど、今でもその名前はよく語られるが
ベームは、その生前の人気のことを考えると、めっきりと影が薄くなった
しかし、上記の演奏などを聴くと、カラヤンと比べてどっちがよほど素晴らしい演奏をしていただろうか、と思う
(少なくとも、私はカラヤンのベートーヴェンを聴きたいとは思わない)

確かに晩年のベームは、その演奏にムラがあったかもしれないが
しかし、その晩年にも「伝説」となってよいような演奏は幾つもあったのではないのだろうか
ここに書いた「運命」も、「田園」とあわせて語り継がれても良いように思う
そして77年来日時の「田園」
同じく77年、ホーエネムスでの「未完成」「グレイト」 etc.

これらの演奏を知っているから
私の中で、ベームの音楽はいつでも息づいている


-・-・-・-・-・-・-・-

ベートーヴェン

交響曲第5番ハ短調 op.67

交響曲第6番ヘ長調 op.68
「田園」

(1975年8月17日 ザルツブルク)

交響曲第7番イ長調 op.92

(1980年8月17日 ザルツブルク)

指揮:カール・ベーム
ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団

(FKM-CDR-19/20)


タグ :音楽



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Posted by 旅人 at 00:30│Comments(0)音楽
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