2015年01月17日

マーラー 交響曲第4番 

マーラー 交響曲第4番 

何故か、マーラーの第4番のCDに手が伸びた 
この曲を知っている人ならば 
屈託なく聴くことのできる楽しい曲であることを理解しているだろう 
指揮者のワルターはこの曲のことを「音楽のメルヘン」と呼んでいたらしい 
確かに、この上ない「メルヘン」だと思う 
しかし、この音楽は子どもの為のメルヘンではない 
大人の為の、ある種「ほろ苦さ」を感じさせる「メルヘン」のように思える


第二楽章にのみ少々影が差すのだが 
他の楽章は天国的な明朗さがある 
特に第四楽章(ソプラノの独唱がある)は 
天国の生活の様子を歌う 
第一楽章の軽やかな鈴の音と合わせて 
マーラーにしては楽天的に映るかもしれない 

しかし、私にとっては第三楽章の音楽が気になる 
ゆっくりとした音楽、この楽章も美しい 
いろいろな旋律が現れる 
そのどれもが「夢」の世界のように思える 
ただ、私にはその「夢」の世界が 
どのどれもが儚く崩れ去りそうなもろさを伴っているように思える 
その旋律のどれもがむせぶような響きをしているように思える 
「夢よ、崩れ去らないでくれ!」
そのような感情で、儚い「夢」にすがりついているような気がする 

これが「世紀末」の感情なのだろうか 
この曲の書かれた20世紀の初頭 
なにかが崩れそうな雰囲気を感じつつ 
人々は現世の「夢」をみていた 
何かが起こりそうだと思いつつも 
「何も起こらないだろう」と信じ込んでいた 
それはぼんやりとした不安であり 
根拠のない「確信」だったのかもしれない 
やがて人々の見ていた「夢」は 
最初の世界大戦で打ち破られた 

作曲者のマーラーは大戦の前に亡くなっているから 
この「現実」を知らない
この曲に対してここに書いたことを当てるのは 
後の世の物の「後付け」の解釈かも知れない 
しかし、このような理由から 
私はこの曲の第三楽章を聴くと切なさを感じる 
儚い「夢の世界」に胸が締め付けられるような思いがする 


なにかが崩れそうな雰囲気を感じつつ 
人々は現世の「夢」をみていた 
何かが起こりそうだと思いつつも 
「何も起こらないだろう」と信じ込んでいた

このことは、現代の日本の姿そのものなのではないだろうか

そんなことを思いながら 


     




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Posted by 旅人 at 23:05│Comments(2)音楽
この記事へのコメント
旅人さま お久しぶりです。お元気そうですね。わたしは、マーラー4番はあまり聞いていません。聞こうと思ったらどうしてか、CD4番だけなくなっていました。全部そろっていたのに、たぶん娘の仕業です。(とくどき持ち去る)
  このところ、パリでのテロ事件を発端に、後藤健二さんのことがあって、世界は、混沌の中ですね。大昔からオスマントルコやら、もっと古くはローマやマケドニアや、アッシリアやバビロニアや、国々は争いばかり続けているけれど。国って何なんでしょうね。特に中東は難しいです。
安倍さんの「テロとの全面的な戦い」という言葉はとても怖いです。後藤さんの死は安倍さんの思いとはまったく違う意味なのだと思うから・・・。
マーラーの音楽は、おどけと、悲しみが同時にあって、でも、深くて美しくて
ちょっと、と思う部分もあるんですけど、わたしやっぱり好きなんだと思います。音楽のこと、また、書いて下さい。
Posted by ミミ at 2015年02月03日 16:28
 ミミさん、こんばんは
 1月の後半はインフルエンザで一週間ほど棒に振りました。この間からようやく復帰しております。
 一口に「テロ」とは言うものの、あまり安易にこの言葉を使うのには躊躇します。立場の違いによりこの言葉もまた意味や対象が異なってきます。安倍総理の「テロとの全面的な戦い」という語感の中に、「自分の言葉に酔いしれている人」の危うさを感じます。
 後藤氏は「弱い立場の人々に寄り添う」立場を撮り続けていた人だと聞いております。ただ、そのことはその意図にかかわらず必然的に「その人たちを弱い立場に追いやった『悪い人々』」の存在がその対立点として浮上します。今回の場合その「悪い人々」の役割が「イスラム国」ということになりそうです。そして多くの人々が多分そのように考え、政権側もそのような風潮を利用して自分たちの主張を推し進めるでしょう。しかし、「イスラム国」という存在が仮に暴虐的なものだったとしても、なぜそのような組織が生まれたのかという点まで思考しなければならないのです。そしてその結論は、必ず今の社会や政治の問題点、矛盾点にたどり着きます。後藤氏の視点もまたそのようなものだったと思われますし、その視点は安倍総理のそれとはまったく違ったものになるでしょう。したがって後藤氏の死が現政権によって利用されることがあるとしたらそれは後藤氏の志からはかい離するものとなると思われます。
 日本の国全体が「批判精神」を失ってきているように思えます。今、もし日本人が「平和の『夢』」を見続けることが出来るとしたならば、それは今までの貯金(憲法第9条を「まがりなりにも」守ってきた)ことによるものです。その貯金をも使い切ろうとしているのが今の日本、そんなことを考えているうちに何故かそのことがマーラーのSym No.4に結びついてしまったのがこの文章でした。
 それにしても、楽しげなゆえに、その楽しさが真剣な故に、そして美しい色彩がパッとはじけるような部分を聴くたびに、「切なさ」を感じさせる曲です。
Posted by 旅人旅人 at 2015年02月04日 01:17
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