2014年08月11日
マーラー 交響曲第三番について
いま、久しぶりにマーラーの第三番を聴いている
「夏の交響曲」第三番は
私には「童心への郷愁」のように聴こえる
若き日には、かえってその事が判りづらかった
聴きにくい曲のようにさえ思えた
しかし、今は
この曲の全編にわたって「懐かしさ」を感じる
それは底知れぬ「無邪気さ」を伴っているように思える
途中で「ニーチェ」を持ち出してこられても
その印象は変わらない
表面的な美しさは、この曲の中にふんだんにある
しかし、この曲の中の随所にちりばめられている「懐かしさ」に気が付いたとき
私は胸が締め付けられるような切なさを感じる
それは
もはや私がいくら手を伸ばしても届かない
はるか彼方へ離れていった
私の中の「童心」に対しての回想なのかもしれない
そう
「童心への郷愁」は第6楽章になって「回想」となる
「美しい」かもしれないのだが
私にとっては切なさが勝る第6楽章
ただ、作曲者はまだ若かった
曲の最後には
まだ「輝かしい未来」を信じている若き作曲家の姿がある
だからこそ
曲の至る所に聴こえる「童心への回想」が
私には切ない
「夏の交響曲」第三番は
私には「童心への郷愁」のように聴こえる
若き日には、かえってその事が判りづらかった
聴きにくい曲のようにさえ思えた
しかし、今は
この曲の全編にわたって「懐かしさ」を感じる
それは底知れぬ「無邪気さ」を伴っているように思える
途中で「ニーチェ」を持ち出してこられても
その印象は変わらない
表面的な美しさは、この曲の中にふんだんにある
しかし、この曲の中の随所にちりばめられている「懐かしさ」に気が付いたとき
私は胸が締め付けられるような切なさを感じる
それは
もはや私がいくら手を伸ばしても届かない
はるか彼方へ離れていった
私の中の「童心」に対しての回想なのかもしれない
そう
「童心への郷愁」は第6楽章になって「回想」となる
「美しい」かもしれないのだが
私にとっては切なさが勝る第6楽章
ただ、作曲者はまだ若かった
曲の最後には
まだ「輝かしい未来」を信じている若き作曲家の姿がある
だからこそ
曲の至る所に聴こえる「童心への回想」が
私には切ない
Posted by 旅人 at 12:05│Comments(0)
│音楽
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。