2014年06月11日

「戦争を回避できる国」

「戦争を回避できる国」

ネットの中で次の文章を見つけた 
一ヶ月ほど前の東京新聞「デスクメモ」と言うコラムだそうだ
 戦争は勝っても負けても誰かが死に、遺族は恨む。誰かが一生の傷を負い、そして恨む。家屋や財産を奪われた市民も恨む。「侵略」ではなく「自衛」でも、それは変わらない。「戦争できる国」になるため憲法解釈をこねくり回す暇が有ったら、「戦争を回避できる国」になれる外交力を磨いてほしい。  (文) 
(2014年5月14日のコラムらしいが正確な日付は不明)

この短い文章は共感を呼んだようで 
いくつかのブログやツィーターで掲載されているようだが 
静岡で「東京新聞」はほとんど縁がないから 
もう一ヶ月近く前の文章だが、此処で紹介しても良いと思う 

短い文章の中に、庶民の立場からの「戦争の本質」をあぶり出し 
この国の行くべき方向性まで書き表している 
透徹した視線と力強さに賛意を示したい 

伝聞なのだが 
ある討論番組の中で、湾岸戦争の時に 
「日本は憲法第九条があるから自衛隊を戦場に派遣することはできない」という理由で 
自衛隊は戦場に派遣されなかった、という話が出たという 
「だから”憲法第九条”は大切だ」ということになるようだが 
これは違うように思う 

もしこの時 
「日本は”憲法第九条(そして憲法前文)”の規定と精神にのっとった形で 
平和的にこの戦争を解決するための外交を行う」と言うことが出来たのなら 
そしてその方向性が(仮の話だが)現在まで続けることが出来たのなら 
今の国際社会における日本の立ち位置は大きく違ったものになっていたと思う 

もし”憲法第九条”が日本の国のあり方に対しての「歯止め」にすぎないのなら 
この「歯止め」はあえなく崩れ去るだろう 
”憲法第九条”が日本の国のあり方に対しての「骨格」として認識されるためには  
その精神を生かすための「具体的な方策」が示されなければならない 
しかしそのことに戸惑いと不安があるだろう 

確かに、隣国政府が「誠実な隣人」とは言い難い面があることは認めなければならない 
では、戦争を念頭に置くべきだろうか? 
国家予算の大半を費やし軍備を揃え、人を動員し 
いかなる犠牲もいとわなければ 
もしかしたら戦争に勝てるかもしれない 

だが、確実に国は疲弊するだろう 
戦争に疲れた人々の心も疲弊するだろう 
戦争によって生まれた憎しみは連鎖して増幅し 
間もなく新しい戦争を生み出すかもしれない 
そして、戦争の実際を 
戦争の中で起きる悲惨な状況を
いま戦争の起きていない時点で
どれほど多くの人がリアルに想像することが出来るのだろうか
あの世に地獄などは無い。
憎しみと残酷さ、それが地獄の元となる。
人間が地獄を作るのだ。
(映画「蝶の舌」より)


「軍備の増強が相手の攻撃を思いとどまらせる」という考え方もあるだろうが 
気休めに過ぎない 
「軍備」はやがて自己の存在価値を探るために「戦争」を欲するようになるだろう 

やはり日本は「戦争を回避できる国」であることを模索しなければならない 
具体的にどうすればよいのか、ではなく 
これは、まずどのような方向性をとるか、という問題なのだと思う 

日本は、まだ「憲法第九条」を真剣に活用したことはない 
そして今、憲法改正、解釈変更を議論している人たちに 
「戦争」を実地に知っているものはいない 



「戦争を回避できる国」

いろいろとネットを検索しているうち 
かつて面白いポスターが存在していたことを知る 
最近の物かと思ったら 
1982年に糸井重里氏が作ったものなのだそうだ 

そして、さらに検索を進めていくと 
100年ほど前に「戦争絶滅受合(うけあい)法案」なるものが提案されていたことを知る 
 戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、十時間以内に次の処置をとるべきこと。即ち下の各項に該当する者を最下級の兵卒として招集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。

一、 国家の元首。但し君主たると大統領たるとを問わず、尤も男子たること。

二、 国家の元首の男性の親族にして十六歳に達せる者。

三、 総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官。

四、 国民によって選出されたる立法府の男性の代議士。但し戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。

五、 キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。

上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として招集さるべきものにして、本人の年齢、健康状態等を斟酌すべからず。但し健康状態に就ては招集後軍医の検査を受けしむべし。

 以上に加えて、上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として招集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし


この「法案」は20世紀初頭にデンマークの陸軍大将・フリッツ・フォルムという人が作ったという
(日本には1929年に長谷川如是閑が紹介している)
  参照先 http://benricho.org/kenpou/sensozetsumetsu.html
 
また、別の職業軍人(将校)はこのように言う
職業軍人は確信的な絶対平和主義者であるべきだ。なぜなら彼は戦争というものを知悉しており、
そこからして責任も感じているからだ。(ハンス・オスター 独)


二人とも「第一次世界大戦」と言う未曽有の戦争を体験した後で 
これらの価値観を得たのだろう 
「戦争を知る」職業軍人の透徹した視点は鋭い 

しかし、これらの視点の背景に 
幾数多の犠牲者がいたということを忘れることはできない 



「戦争は嫌だ」 
本来この言葉は最も強い力を持っていたのだと思う 
戦争の最前線に送られるのは庶民なのだ 
だから庶民にとって「戦争は嫌」なのだ 

しかし、もしかしたら遠くない将来 
この言葉を発すると「愛国心が無い」と攻撃されるようになるかもしれない 
現に、第二次世界大戦中
庶民は「愛国心」という言葉で恫喝されていた 

私は、現在の憲法に対する議論のことを考えるとき 
この基本的な立場「戦争は嫌だ(そしてこの言葉の背後にある様々なこと)」に 
立ち返って考えたいと思う 
そして、この言葉の前に 
政治信条の違い、宗教の違いといった「違い」は関係ないものだと信じたい 







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Posted by 旅人 at 22:33│Comments(2)雑記
この記事へのコメント
旅人さん 池澤夏樹さんが、「死地への派遣 国家に権限はあるのか」というコラムを朝日新聞の6月3日朝刊に書かれていました。「戦場には殺される危険と同時に殺さなければならない危険もある。その心の傷はとても深い。あなたは見ず知らずの人を殺せるか?」
 「国の交戦権はこれを認めない」という日本国憲法のもとに自衛官になった日本の自衛隊員が、交戦自由のアメリカの軍隊と肩を並べて戦えるだろうか?日本国憲法は停止状態、これを強行したら国家のっとり、すなわちクーデターと同じではないか、と。
 わたしたちは、戦争をしないことを、どんなにか日本国の誇りと思っていますのに・・・安倍さんは、誇るべきものを間違っていると思います。戦争はほんとうにダメ!です。
Posted by ミミ at 2014年06月14日 10:02
ミミさん、こんばんは。
戦争をしなかったことは日本の誇りです。しかし、このことが保たれた背景には、憲法第九条のほかに、政権与党の中にも「戦争を知っている、実地に体験している」人が多かった時代が続いた、ということが大きかったのではないか、と考えています。
今現在、70歳よりも若い議員さんに「そのこと」を期待することはできません。
「知らない」のであれば「想像する」ことが大切なのですが、その事の出来る人が少ないように思うのです。
その事を私は恐れています。
Posted by 旅人旅人 at 2014年06月15日 00:02
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