2010年05月04日

海野宿 江戸時代の宿場町は明治時代に養蚕で栄える

海野宿 江戸時代の宿場町は明治時代に養蚕で栄える



海野宿は小諸から上田へ向かう途中にある
江戸時代は宿場町として栄えたが
明治時代に鉄道が宿場を離れて開通すると町存亡の危機となる
その時旅籠としての天井の高さを生かして養蚕を行い、町は再び栄える
現在の建物には養蚕の為の「気抜き」が屋根の上に載っている

以上が海野宿の概要なのだが
静岡の人にとっては
静岡市に多くいる「海野」姓のルーツとして知っている人が多いかもしれない

この方面のことは私は余り詳しくないので話すことは出来ないが
海野宿に住む人に「海野」姓はいないとの事だ
また、この地方の「海野」の地名は奈良時代にすでに記録されているそうだ


(パノラマ写真 写真をクリックしてください 表示された画像をもう一度クリックすると拡大します)

海野宿を初めて訪れたのは25年ほど前のことだったと思う
その頃の海野宿はおそらく「知る人ぞ知る」というような場所だったのではないのだろうか
道に電柱が立っており、当然頭上の電線は視界の邪魔をした
家屋の保存状態は悪く、窓にはアルミサッシが嵌められていた様に覚えている
おおよそ観光に縁がなく、飲食店や土産物屋など有る筈もなかった

それから10年後(今から15年ほど前)訪れたときには、街の様子が変わっていた
電柱が撤去され、家屋の修復がなされており、景観は一変していた
情緒のある美しい町並みが甦っており、歩くのが楽しい町並みとなっていた
しかし、相変わらず飲食店はなく、物品の販売の店も一軒有ったぐらいだったように思う
資料館が一軒あったほかは観光とは無縁に近い町並みだったようだ
この頃が海野宿の一番美しかった頃かもしれない




そのときから6年後(今から9年ほど前)に訪れたときには更に変わっていた
海野宿へ行く道路や駐車場が整備され、飲食店や土産物屋が出来ていた
その土産物屋の人は「去年よりも観光客が少ない」といっていたが
私の知る「海野宿」から比べたら観光客の数は急激に増えていた!!




しかし観光化の如何に関わらず、海野宿の町並みは美しい
家々の意匠の統一は無いから屋根のラインがでこぼこしていたりするが
それが美しいリズムを作っている
例えば上の写真の何軒かの屋根が作るリズム
この写真の中にウダツが2種類、気抜きの屋根も大小2種類
屋根の上に鯱の様な飾り、左の家は出桁造り(二階が一階よりもせり出している)
という具合に、この小さな一枚の写真の中に色々な要素が入っている






また、長短二本づつの組み合わせとなる「海野格子」や道の真ん中を流れる用水路の風情も
この街の特徴としてよく語られる所だ




明治期の養蚕に家屋を使用する為の改造があったため
厳密には江戸時代の街並みとはいい難いのだが
600mほどの町並みは、日本に残されている古い町並みの中でも特によく残っている町並みの一つだと思う
何度でも訪ねてみたい町並だ




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Posted by 旅人 at 23:38│Comments(0)長野県
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