2010年08月10日

長崎 8月9日 2010年長崎旅行(5)

長崎 8月9日 2010年長崎旅行(5)

現在旅行中の記事は、ようやく平戸に入ったところなのだが
今、実際には長崎にいる
順番で行けば今日の事はだいぶ先の掲載になるが
8月9日の長崎のことは出来るだけ日時の経たないうちに書くべきと思った

しかし、私自身は一般の観光者として長崎にいるに過ぎない
私の見たものはごく限られたものになる
また昨日と今日、どのように書けば良いのかを考え続けながらも
結論を得ずに、ただこの日のことを淡々と書くにとどまる

原爆投下時刻は11時2分
その日は無料開放されていた市の原爆資料館を見学後
近くにある爆心地公園の近くに行ってみた

本来は平和公園へ行くべきだったかもしれない
しかし、記念式典の行われている平和公園は
一般の観光者が近づけるところであるとは思えなかった




だが、爆心地公園も中に入れるような雰囲気ではなかった
中では幾つかの団体が集まって集会を開いていた
(参加団体の「旗」が多く掲げられていた)

よく「怒りの広島、祈りの長崎」と言われるが
この場所にあったのは「怒り」でも「祈り」でもなく「運動」だったのだろう、と
後になって思い当たった

この場所に差し掛かったところでちょうど投下時刻となる
爆心地の川を隔てた場所で、私も黙祷をする
街中にはサイレンが響き、近くの教会からは鐘が鳴り続けている
しかしこうした黙祷の時間の中でも
何処からか「シュプレヒコール」が聞こえてくるのはどうしたことだろうか

それでも私が初めて長崎を訪れたとき(15年以上前だっただろうか、そのときも8月9日だった)の喧騒から比べると
だいぶ静かだったのかもしれない

しかし、やはり場違いだったのかもしれない
その場を離れたくなり、浦上天主堂へ向かう
この日は月曜日(浦上天主堂の拝観は、月曜は休み)であり
また、おそらく教会の行事が有るだろうから中には入ることは出来ないだろう
そう思ったが、周囲の雰囲気だけでも、と思う



(パノラマ写真 写真をクリックしてください 拡大します)

浦上天主堂も原爆で倒壊した
レンガ積みの聖堂は「東洋一」と言われていたそうだ
現在の聖堂もそのときの規模を踏襲していると言う
今回の旅行で幾つもの教会を見てきたが
それらの教会堂と比べても、大きさは破格だ
もしこの建物がレンガ積みの元の建物だったとしたら
其処から受ける感銘は絶大だったのだろう

天主堂の中に入ることが出来た
中では「平和祈願祭」という追悼行事が行われていた
浦上天主堂でも、原爆投下時に其処に集まっていた神父、信者の人たちが全員犠牲となった
浦上地区のほとんどの人たちも犠牲となった
キリスト教の禁教時代になぞらえ「浦上五番崩れ」とも言われている

私は信者ではないので、一番後ろでその成り行きを見守る

ここには、確かに静謐な祈りの時間が流れていた
司祭の「祈りの言葉」に続いて参加者たちが「祈りましょう」と和していく
時折聴こえる賛美歌、歌詞はよく聞き取れなかったが
後で尋ねてみると聖歌144番「谷川の水を求めて」とのことだった
(「谷川慕いて」という名称で記憶にあった
 レクイエムの典礼ではよく歌われる)

やがてサンクトゥスが(ラテン語で)歌われ
(このときに聖体―パン―の聖別が行われる)

そして「アニュス・デイ」が歌われるが
その歌詞の中に「レクイエム」という言葉を聞き取ったとき
この行事がレクイエム典礼に則っていたことを知る

その後、信者の人たちは聖体の拝領をし
「行きましょう、ミサは終わりました、神に感謝」
との司祭の言葉でこの典礼は終わったと思ったのだが
最後に賛美歌が一曲歌われた
神ともにいまして 行く道を守り
天(あめ)の御糧(みかて)もて 力を与えませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝(な)が身を離れざれ

メロディーは卒業式でよく歌われる「また会う日まで」とまったく同じ
むしろそちらのほうで知っていたので、この曲の元が賛美歌だったことにおどろきを感じた
後で聞くところでは、死者の追悼の行事では最後に必ず歌われるとのことだった

ここには確かに「祈りの長崎」があった
ただ、「祈り」だけで良いのだろうか
割り切れないことの一つである

浦上天主堂の前で、信者の方が「冷たいお茶」をサービスしてくれた
雨交じりの曇り空の元でも、夏の日の冷たい飲み物は気持ちが良い

しかし、この日に「水をいただく」ことには、もっと特別な意味があることを後で思い至った




平和記念像の前には木の樽に入った「水」が供えられている
65年前のこの日、水を求めながら亡くなっていった多くの人々がいた
そのため、追悼の式典では水が供えられる

天主堂で冷たいお茶を頂いたとき、そのことに思い至らなかった
「水を飲む」という当たり前のことでさえ、一つの核弾頭のために「当たり前でなくなる」
そのことを広島や長崎に「行かなくても」想像できる様にしなければならない

今回の旅行はそれまでは天候に恵まれていたが
この日は時折雨が強く降った
「水をください」という最後の叫びに
65年後のこの日、天は呼応したのだろうか



戦争は嫌だし、平和の尊さを訴えたい
しかし、このことは「8月以外」の月に主張できないものだろうか
広島・長崎や、8月15日に平和を思っても
その後の「9月11日」やそれ以降の風潮を肯定しなかっただろうか
アメリカのアフガニスタン・イラクへの侵攻を肯定しなかっただろうか
「私は反対だった、9月11日にもきな臭さを感じた」と、私はもし言うことが出来たとしても
「私は発言しなかった」という事実は拭い去れない

テレビ番組では明治維新や日清・日露戦争を取り上げたドラマが放映されている
「近代日本の出発点」なのかもしれないが
明治維新から続く歴史の一つの終点が「広島・長崎」であり、敗戦であったように思えてならない

もっと自分自身で考えなければならない、自分自身の目で多くのことを見定めなければならない
そして、「大切だ」と思ったことは何かしらの方法で伝えなければならない
そのために「ブログ」はあると思う


8月9日は、夜になっても時折人々が訪れ、花を手向けていた



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Posted by 旅人 at 23:42│Comments(3)長崎県
この記事へのコメント
WEB上で見つけましたのでお便りします。私は昭和30年代に中学校で「また会う日まで」を歌っていたのですが、貴方が卒業式で歌われていた歌詞はどんなのだったのでしょう。私の記憶にある歌詞は「陽は早傾きぬ たゆとう夕雲 若き命映ゆ 集いは今果てたり さらばいざ我が友 また会う日まで 健やかにましませ また会うその日まで」でした。私はこの訳詩者を調べているのですが判りません。よかったらご返事をいただければ幸いです。経緯はブログにも書いてあります。突然のお願いをお許しください。
Posted by 長谷川 喜八 at 2012年06月27日 18:00
長谷川 喜八 様、こんばんは。ご訪問頂きありがとうございます。

ご質問の件についてお答えいたします。

 春の日の輝く 
 この庭に 窓に 
 過ぎた年月の 
 思い出の数々 
 また会う日まで 
 また会う日まで 
 お別れ今日は 
 皆さんさようなら 

歌詞はうろ覚えなのですが 、おおよそこのような歌詞だったと思います。 
この歌詞の訳詞者はわかりません。
以上、簡単ではありますが、お役に立てたなら幸です。
Posted by 旅人旅人 at 2012年06月27日 22:07
早速のご返事ありがとうございました。
きっと、あちこちの学校の先生方が“よい意味で”替え歌をつくったのでしょうか。
ほんとうにございました。
Posted by 長谷川喜八 at 2012年06月28日 07:43
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