2012年08月18日
松の葉の先に蝉の抜け殻を見る

もう夏も後半に入る
ブログはほぼ一ヶ月休んでいた
昼動くと夜に疲れが出て
何もせずに終わってしまう、という日々が続いた
何も書かずに8月の前半を過ごした
この時期「大切なこと」と思っていた「広島」「長崎」「敗戦」にあわせた記事も書かずにすごした
「あの戦争で、祖父の一人は死んでいるのだ」
そう頭の中で考えていても、実感は無い
戦死した祖父とは生きて会う事はなかったのだから
「祖父」という実在した人を「実感すること」が出来ないのだ
戦争とは「記憶を断ち切ること」なのだろう
「8月」を、久しぶりに傍観者として、ぼんやりと眺めていた
しかし、今年は例年になく「軍靴の音」が近づいてきたように思う
それは「民族主義」をともなってやってくる
今年の8月前半は、オリンピックが行われていた
メダルを獲った選手、入賞した選手には「おめでとう」
そうで無い選手にも「ご苦労様」
しかし、私の心の中では
多分あと一週間もすると「誰がメダルを獲ったか」「幾つメダルを獲ったか」ということを
忘れているか、気にも留めていないように思う
そのことよりも、オリンピックについて印象に残ることは
「オリンピック=ナショナリズムの祭典」という点に尽きる
そのことに呼応するかのように、昨今のこの国を取り巻く状況
そのことを頭の中で整理することだけでも億劫になる
今年の夏は、余計疲れる
夏は終盤に向かい、暑さは最盛期を迎える
蝉の鳴き声もかしましい
しかし、例年庭の木に多く見るはずの蝉の抜け殻が
今年はまだあまり見ていないように思えた
7月の半ばに今年最初のニイニイゼミの抜け殻を見てからあと
ぜんぜん見かけていない
そのことを不思議に思っていたある日、ふと自分よりも高い位置へ松の木に視線を向けたとき
幾つもの蝉の抜け殻を見つけた
「なんだ、ちゃんと有るじゃないか」
そう思いながら蝉の抜け殻を丹念に一つずつ追っていくと
その内の幾つかは、細い松の葉にしがみついているのを確認した

樹の幹についている抜け殻は「当たり前」なのかもしれないし、そのほうが安定している
しかし、不安定な細い松の葉の先端を、なぜ羽化の場所として選んだのだろう
蝉にとっての、本当の「都合」をうかがい知ることは出来ない
しかし、蝉は、羽化する前の姿でも、自分に出来るだけの努力をして
出来る限りの高みに達しようとしたのではないのか、と思えてきた
「更に高く」
その為には葉の先端までも上り詰めたのだろう
そして、できる限りのことをして、もうそれ以上高く登れないとき
殻を抜け出さなければならない
自分の殻を脱ぎさって、更に高く、新しい自分の羽でそれ以上の高みを目指したのだ
そのように考えてみた

羽化だけならば、そんなに高く登る必要は無いように思う
しかし、蝉のもつ純粋な「高み」への欲望が
松の葉の先端に見つけた抜け殻に対する説明のように思えた
そのような場所にある抜け殻は
陽の光を透かして、べっ甲色に輝く
透明感のある、美しい色だった