2010年01月17日
大久野島 - 毒ガス製造工場 - もう一つの「ヒロシマ」
大久野島は周囲約4km、民家等は無い
宿泊施設としての“休暇村”と瀬戸内海の風景、島々の景観
ウサギが戯れるのどかな眺めなど、リゾート地の風情がある
その一方で
1897年~1924年 芸予要塞
1927年~1945年 忠海兵器製造所(毒ガス製造)
というように、重要な軍事拠点だった
その為、対岸からは写真撮影が許されず
呉線を走る列車の海岸側の窓は全て閉ざされ
大久野島は地図からも消されていた
大久野島は「地図から消された島」「毒ガス島」としても知られている
戦後、朝鮮戦争時にはアメリカ軍により弾薬庫として使用された
(パノラマ写真 写真をクリックしてください
表示された画像をもう一度クリックすると拡大します)
休暇村で自転車を借りて島内を走る
自転車で島内を走る場合は時計回りに走るようにとの事だったので
最初に見えるのは島の西側に広がる瀬戸内の風景
そのうちにテニスコートなども見えてくる
休暇村本館からこの付近にかけて
かつては毒ガス工場の施設が密集していた
私が学生だった頃
大学での指導教官は戦争時、師範学校を卒業後海軍に志願
海軍では陸戦隊の化兵隊(化学兵器隊の略、毒ガス隊のこと)に所属した
その中でも生々しい話として
演習中に「イペリット」(びらん性毒ガス)を実際に腕に一滴たらしてその毒性を確かめたという
一晩明けると、数センチの円盤状に皮膚がただれ
その発疹は日ごと拡大、数日後には手の甲から肘までがただれたと言う
三日ほどの「軽業」(演習に行かなくてもよい)となる重症だったという
そのときのケロイド状の跡を見せてもらったことも有る
いつから大久野島の事を意識するようになったかはよく覚えていないが
学生時代の印象が後に大久野島に結びついたことは確かだ
初めて大久野島を訪れたのは10年ほど前
そのときはほんの僅かな滞在で資料館を見た程度だった
もう一度、今度は島を一周してみたいと思っていたが
この日まで先延ばしになっていた
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また、画面にマウスを合わせると右上付近に拡大のマークが出ます
そのマークをクリックすることで大きな画面でパノラマ写真を見ることが出来ます。)
テニスコートが途切れかけた頃に右手に崩れた建造物が見える
長浦毒ガス貯蔵庫跡で、毒ガス貯蔵庫としてはもっとも大きかったらしい
内部が黒焦げになっているが
毒ガス工場閉鎖後に消毒作業として内部を焼かれた跡だそうだ
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先を進めると島の北部に達し、少しきつい上り坂になる
自転車を押しながら歩くうちに切石・レンガ等で構築された砲台跡が見える
芸予要塞時代の砲台跡で北部砲台と呼ばれるうちの西側の部分
此処には24センチメートル砲が4門置かれていた(3門分が現存)
要塞の開設時から100年以上たっている
それほどの時間が経っていても、構築物は揺ぎ無く残っている
軍事施設がいかに手間隙と金をかけて作られたか、ということだろう
此処から中部砲台跡まで登りの散策路を歩く
振り返って風景を見る
島の北部から見えるのは本州側の景色
忠海の街並みが見える
頂上に着く
海上から島を見たときに目立った送電塔
高さ226mあるそうだ、どうりで高い
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この鉄塔の近くに中部砲台が有る
此処には28㎝瑠弾砲が6門設置されていたという(4門分が現存)
砲台がすり鉢状に窪んでいるのでこれで標的が見えるのかとも思うのだが
砲弾は弧を描いて飛んでいくのだから此れで良いのかもしれない
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この場所で印象深かったのは
カマボコ状に掘られた横穴の空間が七つ並んだ場所
正面はレンガが積まれ、中もレンガで固められている
このような施設は先ほどの北部砲台跡にも有ったが
内部に土砂が流入し、入る事はできなかった
それらの空間は奥で更に横につながれている
その横に繋がる連絡の穴は廻廊のアーチの連続のようにも見える
この足音がこだまする空間をどの様に表現したらよいのだろう
この場所には空間としての冷たさ - おおよそ軍事施設に温かみなど感じないが -
が感じられる
悲しみさえ感じることの出来ないような感情を押し殺した場所のようだ
(たとえ此処が、実際に戦争の場所となる事が無く
軍事施設としては「長閑な所」だったとしてもだ)
それなのに、正面の意匠や室内奥の連絡路アーチの連続に
様式的な美しさを感じるのは皮肉なことだ
もし、無理にでも「平和な時代の何処か」を連想するとしたら
それは修道院の禁欲と孤独なのではないだろうか
(しかし修道院なら、まだ祈りと救いがある)
この空間は、兵士の仮眠所として使われていたらしい
芸予要塞は、砲台としては機能することなく廃止されたが
その後、この砲台跡は毒ガスの製品置き場として使われていたようだ
不謹慎な言い方かもしれないが
もしこの地が芸予要塞の歴史のみだったら
「昔は此処に大砲を据えていたのだよ
今は平和でいいね」
という話をしていたのかもしれない
しかし、毒ガス製造の歴史を背負ったということは
「加害の歴史」を背負ったことを意味する
確かに化学兵器禁止条約では、化学兵器の製造・保持までは禁止していなかった
アメリカ軍は日本の本土上陸を行う際、毒ガスの使用を予定していたというから
「日本だけではない」という言い方も出来るかもしれない
だが、もし核兵器を非人道的な無差別大量殺戮兵器で
後遺症も重篤であり、人間の尊厳を傷つける物であるとして反対するのなら
同じような性質を持つ毒ガス兵器を製造していたことについても
重く受け止め、記憶に残していかなければならない、過ちを再び繰り返さない為に
毒ガスは「貧者の核兵器」といわれている
比較的低コストで、ある程度の化学知識があれば製造できる
しかし、無差別大量殺戮兵器である点、生き残った被害者に対しての後遺症という点において
核兵器のそれに勝るとも劣らない
それでは大久野島で生産に携わっていた人の目から見たらどうだろう
もともと毒ガス工場の設置は
芸予要塞の廃止による地域経済の沈滞化の歯止めのために
国に何らかの施設を要望したのがきっかけだった
彼らは「お国の為」と信じて毒ガスの生産に携わっていた
軍はほとんど洗脳的に「毒ガスの意義」を従業者に植え付けていた
「その障害は致死的ではなく、敵の戦闘能力を低下させる為のものであり、敵だからと言って強いて殺すのではない。通常兵器の様に流血の惨事を引き起こさず障害も傷みやその苦痛度が低い。極めて人道的である。」
(『化学兵器の理論と実際』陸軍技術本部 1936年)
このことが「嘘」だったことは従業者が身をもって知ることになる
防護服に身を固めても必ず被毒してしまう
島全体に刺激性の強い毒ガスが充満していたという
事務員や診療所の看護婦さえも被毒したという
大久野島は「大苦之島」とささやかれていた
毒ガスが「人道的な兵器」なんかではないということを知っていた
戦争が終わると一転して
「最悪の場合、毒ガス製造の罪で占領軍に拘束されるかも」ということになった
「お国の為」が「戦争犯罪」に変わってしまった
体は毒ガスに蝕まれていた
「国策」による「被害者」だった
しかし、毒ガスが実際に戦線に投入され被害を出していた事を知ったとき
被害者であった筈の大久野島の従業者が
実は「加害者」であった事を意識しなければならなくなった
広島は「原爆」はその余りの悲惨さ、悲劇性から
おおむね被害であり悲劇であると受け止めている
しかし広島が重要な軍事拠点であり、此処から多くの兵士が戦地へ送られた事など
「加害としての広島」を意識する意見も少なくないが
被害としての意識が勝っているように思う
大久野島は「貧者の核兵器」「使用禁止の兵器」毒ガスの製造という点
被害が交戦国からでなく国策から由来するものである点
「加害」と「被害」が明確である点で「ヒロシマ」と対比される
大久野島が「もう一つのヒロシマ」といわれる所以だろう
(パノラマ写真 写真をクリックしてください
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中部砲台跡の西側からの瀬戸内海の眺望は
休暇村西側からの眺望よりも高さがあるため
島々がより立体的に重なる
過去の歴史が無ければ長閑な所なのだ
(パノラマ写真 写真をクリックしてください
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下に降り、島内周回を再開する
上り坂の頂点に達した頃、また砲台が見える
此処は北部砲台跡の一部で12cm速射砲が4門据えられていたそうだ
砲台跡はあと南部にもう一箇所あるが、今回は割愛した
北部砲台跡を越えた辺りから下り坂となり
坂を下りきったあたりに大きな建物の廃墟が見える
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発電所跡で毒ガス施設の中では恐らく最大の遺構かもしれない
大久野島へ渡るフェリーから見えた廃墟がこの建物だ
此処では発電のほかに「風船爆弾」の製造も行われていたそうだ
しかし、毒ガスの製造には直接関係しないとして
この遺構の保存には行政は余り積極的ではないらしい
とりあえず「壊さない」ということで、朽ちるに任せているようだ
中への立ち入りは禁止されている
その廃墟の前で
ウサギがのんびりと草を食んでいる姿に、周囲との落差を感じる
大久野島のウサギは毒ガス製造時の実験用ウサギが野生化したもの
という話も有ったが、それは間違いらしい
実際にはかなり後になって飼育できなくなったウサギを無断で放ったのが繁殖したそうだ
ウサギは島全体に居るのだろう
北部で見かけたウサギは人を恐れる事も、反対によってくる事もないが
休暇村付近やビジターセンター付近に多く生息するウサギは人になれているようで
私が自転車を止めるとさっそく集まってきて
「お出迎え(餌の催促)」をする
海岸線に出る
フェリー桟橋を越えて暫く走るともう一つ桟橋が見える
この桟橋は毒ガス製造時代には唯一の桟橋で
対岸から通勤してくる作業員は皆此処から上陸した
(ただし、空襲が激しくなると対岸の忠海から最短距離にある
西側の海岸にある埠頭を使ったらしい)
このあと慰霊碑、資料館を訪れて、約三時間かかった島内一周を終える
大久野島の事がどれぐらい知られているか、わからない
慰霊碑の横に、原爆の慰霊碑に手向けられているのと同じように
千羽鶴が置かれていたがその数は少なく
原爆慰霊碑の千羽鶴との落差を感じた
確かに此処は離れ小島で、来るのに手間のかかるところかもしれない
しかし、関心の低さもあると思う
大久野島の事を知るのは、広島の原爆のことを知るのと同じくらい大切なことと思う
此処は多くの人に訪れて欲しい所と思う
私は静岡の人間だから、あともう一つ書いておきたい
静岡には静岡歩兵第三十四連隊があったが
その第三十四連隊関連施設の中で毒ガス訓練用の建物があり現存しているという事実だ
現在は個人の所有なので写真は撮らず
ごく普通に歩道から見ることの出来る範囲でしか見ていないが
長方形の建物には小窓が多数付いており
部屋に毒ガスを充満させたときの密閉性が良さそうなことが見て取れる
このような建物があること自体
旧日本軍が毒ガスを実戦配備していたことを示しているように思う
このような建物が現存しているという事も知っていてほしいと思う
-・-・-・-・-・-・-
この文を書くにあたり、大久野島については下記の本を参考にしました
毒ガス島と少年 -「大久野島」語り継ぐ為に- 村上初一 著
毒ガス島の歴史《大久野島》 村上初一 著
また、大久野島については下記のページもご参考ください
毒ガス島歴史研究所 http://homepage3.nifty.com/dokugasu/
2021年9月14日追記
2019年8月5日に大久野島を再訪しした
その際に撮影した360度パノラマを記事の中に追加しました
撮影日から二年余り遅れての掲載となりましたが
360度パノラマを別サイトに投稿の後
そこから埋め込みコードを取得して
記事に掲載する手間があったための遅れです
つまり、別サイトがチェコに拠点のあるサイトの為
パノラマの解説として英文の説明文を書く手間に
おおよそ2年を費やしました
通常の画像では説明文を書くようなことはせずに投稿するのですが
大久野島の歴史の特殊性から、説明文は必要と判断しました
英語は殆ど出来ないため、翻訳ソフトを使いながらの作業となりましたが
最近になってかなり優秀な無料の翻訳ソフトが出てきたことから
この作業を終えることが出来、公開にこぎつけました
なお、2010年訪問時に訪れた中央砲台跡は
2019年の訪問時にはその前年に起きた豪雨災害の影響で立ち入り出来なかったため
訪れておりません
360度パノラマ画像は記事内の該当箇所に掲載してあります
以下に、画像に添付した英文の説明を掲載します
OKUNOSHIMA Island is now known as the "Rabbit Breeding Island". And many tourists visit for the rabbit.
However, about 110 years ago (1902-1924), a fortress was installed on this island.
The role of this island as a fortress ended in 1924.However, in 1929, a poison gas production plant will be set up on the island. And many poisonous gases were produced until 1944. The main products were blister agment,yperite and lewisite,whici cause blistering when contacted with skin.Annual production was 1500tons and it is said that a total of 6616tond were produced over the 15years of active production. These poisonous gases were used in battles fought on the Chinese mainland and caused great damage to the Chinese people.(The use of poisonous gas was "prohibited during the war" even in international treaties at that time.) The Japanese workers who produced the poison gas also suffered serious health problems and many died. Survivors of the workforce at the time are still suffering from severe after-effects to this day.
Immediately after the end of the war, the poison gas production facilities on Okuno Island were first destroyed by the Japanese. This was done in order to conceal the fact that poison gas was being produced. In addition, the American and British troops who occupied Japan destroyed and detoxified the facilities.
After the war, Japan's production and use of poison gas was prosecuted by the Tokyo Tribunal.However, it was exonerated by the US military.When Japan's poisonous gas was a problem, the US military itself was afraid that it would not be possible to research and use poisonous gas.
The Americans were planning to use poison gas in the event of an invasion of the Japanese mainland.
OKUNOSHIMA Island should be remembered as a place of "Negative Heritage". But,due to the destruction after the end of the war, there are almost no poison gas production facilities left on the island. Apart from the ruins of the few remaining warehouses, all that remains is the site of the gun emplacements, the remains of the power station, which had nothing to do with the production of poison gas, and the museum, which displays the few remaining production tools and materials.
Ōkunoshima(Wikipedia) https://en.wikipedia.org/wiki/%C5%8Ckunoshima
Posted by 旅人 at 18:18│Comments(2)
│広島県
この記事へのコメント
旅人さま
四国に友人がいるので、5月にでも遊びに行こうかなっと思って参考にとブログ読みました。大久野島のレポート、感動しました。呉にはよく仲間が見学に行って、その軍事色に憤って帰ってくるのですが、この島のことは初めて知りました。物見遊山と思っていた私ですが、日本の逆行しそうな歴史の流れに、多くの方に読んでほしいレポートですね。
四国に友人がいるので、5月にでも遊びに行こうかなっと思って参考にとブログ読みました。大久野島のレポート、感動しました。呉にはよく仲間が見学に行って、その軍事色に憤って帰ってくるのですが、この島のことは初めて知りました。物見遊山と思っていた私ですが、日本の逆行しそうな歴史の流れに、多くの方に読んでほしいレポートですね。
Posted by ミミ at 2014年04月06日 18:21
ミミさん、こんばんは。
私はときどき「私が知っているのだから、多くの人が知っているのだろう」と考えてしまうことがあります。しかし大久野島のことについて知る人は少ないのではないだろうかと考えています。少なくとも「ヒロシマ・ナガサキ」のことに比べれば、その差は大きいように思います。「大久野島」も「ヒロシマ・ナガサキ」も、あるいはそのほかの多くのことも、知っているだけではなく「意識して心に留める」ことが必要なように思います。
私はときどき「私が知っているのだから、多くの人が知っているのだろう」と考えてしまうことがあります。しかし大久野島のことについて知る人は少ないのではないだろうかと考えています。少なくとも「ヒロシマ・ナガサキ」のことに比べれば、その差は大きいように思います。「大久野島」も「ヒロシマ・ナガサキ」も、あるいはそのほかの多くのことも、知っているだけではなく「意識して心に留める」ことが必要なように思います。
Posted by 旅人 at 2014年04月07日 00:49
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